揚琴、オカリナ & インディアンフルート奏者がつづるいろいろばなし。
音楽、田舎暮らし、自然・環境、時事、ほかいろいろ。
どうぞ、ごゆっくり。
音楽、田舎暮らし、自然・環境、時事、ほかいろいろ。
どうぞ、ごゆっくり。
×
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
#313 遊んで、呼吸して
楽器は音楽を表現するためにある。ところが、音楽を表現する際のもっとも大きな制約にもなる。上手になれば制約がなくなるかと言えば、そうではない。演奏の際に、楽器が音楽を表現する行為に欠かせないものであると同時に制約にもなることは、言わば宿命なのだ。宿命。悲しいサダメ。
楽器は音楽を表現するためにある。ところが、音楽を表現する際のもっとも大きな制約にもなる。上手になれば制約がなくなるかと言えば、そうではない。演奏の際に、楽器が音楽を表現する行為に欠かせないものであると同時に制約にもなることは、言わば宿命なのだ。宿命。悲しいサダメ。
たとえば「サザエさん」というピアノ曲を演奏する場合、まず始めに自分の中に表現したいと思っている音楽がある。それをピアノに託して実際の音にして表現するということが、演奏の意味だ。その際、ピアノがまったく弾けない人にとっては、ピアノが表現の制約になっていることは明らかだ。少し弾ける人にとっては、その制約はやや小さく感じられるかもしれない。そして上手に弾ける人にとっては、その制約はより小さくなり、聴いている者から見れば、どんな制約もなく、まったく自由に弾いているように見えることさえある。
ところが、どんなに上手に弾ける人にとってでも、ピアノを弾かずにテレパシーかテレキネシスか何かで「サザエさん」を表現できることが叶うならば、その方がより自由であることはまちがいない。
ということは、楽器はどこまで行っても表現を制約する存在であることをまぬかれないということになる。同様に、アニメや漫画という手法も、長谷川町子さんの中に住む本当のサザエさんの姿を表現することの制約になっているのだと言える。
このことは、実はふたつのことを物語っている。
ひとつは、楽器が制約になるということは、楽器を扱う肉体がそもそもの制約になっているということだ。
もうひとつは、音楽は楽譜の中や楽器の中にあるものではなく、演奏する人の中にあるということだ。
ある人は、それぞれの瞬間の音色を聴くことで、自分はそれに触発されて次の音を奏でると言う。それはその通りでワタシもそうしているのだが、その人は、そのことを奏者だけではなく楽器が音楽を作るのだと捉える。がしかし、触発されるということは、そもそも同じものが自身の内部にあり、それが外部からの刺激と共鳴したということだ。
また、楽譜や音源からその曲が表現しようとしているものを読み取れるということは、やはり自身の内部に同様のものがあるからこそできることだと言える。何もなければ、ただ音符をなぞるだけの行為となり、それは音楽表現とは言えない。サザエさんが好きな人は、サザエさん的なものが自身の内部にあるのだ。外見にもあったりして。
だから、音楽を聴いて感動したのならば、その感動とは、その音楽と自分自身との共鳴の証なのだということになる。
内なる音楽を表現するには、楽器を、つまり肉体を使うしかない。が、完璧な肉体が存在しない以上、完璧な表現はあり得ない。したがって、音楽はそれぞれの人に内在するものであるが、楽器は、肉体は、内なる音楽を表現することに制約を課する存在だと言える。
きょうのある音楽番組で、ピアニストのマリア・ジョアン・ピレシュが、スカルラッティのソナタ・ト長調K455のレッスンをしているときのこと。この曲はたいへん「ピアニスティック(ピアノの特性を十分生かした表現)にできている」とのことだ。この曲を完璧な技巧で弾きこなした生徒のひとりに対して、ピレシュは、
「ピアニスティックに弾かないで。ピアノに使われてはいけないわ」
と告げた。そして、
「ピアノは常に音楽の制約になるの」
と語った。つまり、それゆえにピアノに使われるような演奏は、奏者を制約の中に閉じ込めてしまうというのがピレシュの真意だ。制約の中に自ら閉じこもってしまえば、真の自由にはけっして手が届かない。つまり、楽器にとらわれてしまってはいけないのだ。
ピレシュは何度も繰り返した。
「もっと遊んで!」「もっと呼吸して!」
演奏の道というものは、いかに制約から自由になるかの苦闘の道だと言えるのやもしれない。しかもその道は、けっして完全な自由へとはつづいていない。
一方、「音楽」の道は、始めからそこに完全な自由が用意されている。音楽の道は、そこへ「還る」道なのだと言えるのやもしれない。そしてその道の途上には、楽器と肉体が欠かせない。
制約を受け入れてこそ、初めて制約から自由になれる道が開ける。
・・・あんたを受け入れることで、初めてあんたから自由になれるってか。はいはい。
ところが、どんなに上手に弾ける人にとってでも、ピアノを弾かずにテレパシーかテレキネシスか何かで「サザエさん」を表現できることが叶うならば、その方がより自由であることはまちがいない。
ということは、楽器はどこまで行っても表現を制約する存在であることをまぬかれないということになる。同様に、アニメや漫画という手法も、長谷川町子さんの中に住む本当のサザエさんの姿を表現することの制約になっているのだと言える。
このことは、実はふたつのことを物語っている。
ひとつは、楽器が制約になるということは、楽器を扱う肉体がそもそもの制約になっているということだ。
もうひとつは、音楽は楽譜の中や楽器の中にあるものではなく、演奏する人の中にあるということだ。
ある人は、それぞれの瞬間の音色を聴くことで、自分はそれに触発されて次の音を奏でると言う。それはその通りでワタシもそうしているのだが、その人は、そのことを奏者だけではなく楽器が音楽を作るのだと捉える。がしかし、触発されるということは、そもそも同じものが自身の内部にあり、それが外部からの刺激と共鳴したということだ。
また、楽譜や音源からその曲が表現しようとしているものを読み取れるということは、やはり自身の内部に同様のものがあるからこそできることだと言える。何もなければ、ただ音符をなぞるだけの行為となり、それは音楽表現とは言えない。サザエさんが好きな人は、サザエさん的なものが自身の内部にあるのだ。外見にもあったりして。
だから、音楽を聴いて感動したのならば、その感動とは、その音楽と自分自身との共鳴の証なのだということになる。
内なる音楽を表現するには、楽器を、つまり肉体を使うしかない。が、完璧な肉体が存在しない以上、完璧な表現はあり得ない。したがって、音楽はそれぞれの人に内在するものであるが、楽器は、肉体は、内なる音楽を表現することに制約を課する存在だと言える。
きょうのある音楽番組で、ピアニストのマリア・ジョアン・ピレシュが、スカルラッティのソナタ・ト長調K455のレッスンをしているときのこと。この曲はたいへん「ピアニスティック(ピアノの特性を十分生かした表現)にできている」とのことだ。この曲を完璧な技巧で弾きこなした生徒のひとりに対して、ピレシュは、
「ピアニスティックに弾かないで。ピアノに使われてはいけないわ」
と告げた。そして、
「ピアノは常に音楽の制約になるの」
と語った。つまり、それゆえにピアノに使われるような演奏は、奏者を制約の中に閉じ込めてしまうというのがピレシュの真意だ。制約の中に自ら閉じこもってしまえば、真の自由にはけっして手が届かない。つまり、楽器にとらわれてしまってはいけないのだ。
ピレシュは何度も繰り返した。
「もっと遊んで!」「もっと呼吸して!」
演奏の道というものは、いかに制約から自由になるかの苦闘の道だと言えるのやもしれない。しかもその道は、けっして完全な自由へとはつづいていない。
一方、「音楽」の道は、始めからそこに完全な自由が用意されている。音楽の道は、そこへ「還る」道なのだと言えるのやもしれない。そしてその道の途上には、楽器と肉体が欠かせない。
制約を受け入れてこそ、初めて制約から自由になれる道が開ける。
・・・あんたを受け入れることで、初めてあんたから自由になれるってか。はいはい。
Chategory
太 陽 暦
11 | 2024/12 | 01 |
S | M | T | W | T | F | S |
---|---|---|---|---|---|---|
1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 |
8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 |
15 | 16 | 17 | 18 | 19 | 20 | 21 |
22 | 23 | 24 | 25 | 26 | 27 | 28 |
29 | 30 | 31 |
管理人について
HN:
巴だ リョウヘイ
性別:
非公開
職業:
揚琴・笛演奏屋 オカリナのセンセイ
趣味:
ほしい。
自己紹介:
演奏活動範囲/全国の都心から山間地まで。
演奏場所/ホールからお座敷まで。オカリナは野外歓迎。
演奏目的/オープニングセレモニーから追悼演奏まで。
演奏形態/独奏から異業種間共演まで。
所属事務所/Magnolia Music(自分的オフィス)
コンタクト方法/上記のホームページ(HP)の「FAQ & Form」のページからどうぞ。
特 技/晴れ男であること。
オカリナ倶楽部 “夢見るガチョウ” 主宰。
2018年、京都府下農村から大阪府下住宅街に移住。
今も雨乞い師見習い。
今も自然農見習い。
ノアのおとうちゃん。
演奏活動範囲/全国の都心から山間地まで。
演奏場所/ホールからお座敷まで。オカリナは野外歓迎。
演奏目的/オープニングセレモニーから追悼演奏まで。
演奏形態/独奏から異業種間共演まで。
所属事務所/Magnolia Music(自分的オフィス)
コンタクト方法/上記のホームページ(HP)の「FAQ & Form」のページからどうぞ。
特 技/晴れ男であること。
オカリナ倶楽部 “夢見るガチョウ” 主宰。
2018年、京都府下農村から大阪府下住宅街に移住。
今も雨乞い師見習い。
今も自然農見習い。
ノアのおとうちゃん。
New Entry
(08/20)
(04/18)
(05/17)
(09/04)
(08/31)
(04/24)
(04/19)
New Comments
※ 非公開を希望される方はその旨お書きください。
[09/10 水戸ふぢ]
[09/05 森下知子]
[07/17 Kitty]
[05/31 Kitty]
[04/17 Kitty]
[03/13 巴だ]
[12/08 栗美]
ブログ内検索
New Track Back
Archives
ようこそ