揚琴、オカリナ & インディアンフルート奏者がつづるいろいろばなし。
音楽、田舎暮らし、自然・環境、時事、ほかいろいろ。
どうぞ、ごゆっくり。
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#310 捨てませう
練習とよく似た言葉に修行がある。練習と修行のちがいは、そこに精神面の向上プログラムが含まれているか否かではないかと思う。精神面の向上とは、人格形成とも言えるし、平たく言えば「えらい人になること」だとも言える。それはいかにもたいへんそうなので、練習すらきらいな人は、修行と聞いただけで3秒せぬ間に逃げ出すこととなる。が、えらい人になろうとするなど、そもそも修行の精神にもっとも反するのではないか。
練習とよく似た言葉に修行がある。練習と修行のちがいは、そこに精神面の向上プログラムが含まれているか否かではないかと思う。精神面の向上とは、人格形成とも言えるし、平たく言えば「えらい人になること」だとも言える。それはいかにもたいへんそうなので、練習すらきらいな人は、修行と聞いただけで3秒せぬ間に逃げ出すこととなる。が、えらい人になろうとするなど、そもそも修行の精神にもっとも反するのではないか。
それはともかく、スポーツ系の世界では、いくつかの競技には精神面向上プログラムを取り入れ、「道」という文字を付加してきた。「道」とは言わば「人の道」てなものだろう。剣道、柔道、合気道などなどで、ひとことで武道という場合もある。どうもサムライの伝統のようだ。さかのぼれば儒家・道家思想か。
また文化系の世界にも、茶道、華道、香道などがある。
はたと気がついた。音楽の世界にはそのようなものがない。この国のいわゆる邦楽や伝統芸能の世界にも、「道」の一文字が付くジャンルはない。不思議と言えば不思議だ。
では、ワタシが「道」付きの音楽というものを創始してしんぜよう。「揚琴道」「オカリナ道」「作曲道」でいかがか。
・・・「揚琴道」は、中国のどこかの山の中の「揚琴の先祖が伝わったと言われる道」みたいに思えるな。「オカリナ道」というのは字面にどうにもしまりがない。「御可理納道」とでもするか。「作曲道」と書けば、何か曲がった物を作る作業のようだ。とほほ。
それ以前に、「方向音痴が道を説くなど、何をえらそうにっ」と言われそうだな。
楽器の練習というものは、その気になれば日常生活といくらでもリンクできる。なかでも、「無駄な力を抜いて演奏する」という演奏の基礎、と言うかコツと言うかは、あらゆる場面に生かすことができる。それはそのまま、生活の質を高めることになると、ワタシは思う。すなわち、そこには「道」的な要素がある。
さて、「道」すなわち修行と聞けば、何かを身に付けるものだと思われがちなのではないか。が、「無駄な力を抜く」という行為と言うかコツと言うか作業は、何か新たなものを身に付けることではないのは明らかだ。それでいて、物事への取り組み方や考え方や人付き合いなど、生き方そのものにまで生かすことができる行為と言うかコツと言うか作業なのではないだろうか。
誰しも生まれてきたときは裸一貫、無一物。なにひとつとして無駄がない。それが、コンニチただいまの自分の周囲と中身を見やれば、なんと無駄の多いこと。
つまるところ、無駄な力を抜くとは、言い換えれば「捨てる」ことだ。人は、捨てられそうにないものを捨てることで、一歩前進できるときがある。どうしても無駄な力が抜けないとき、そこには何かを捨てられない自分がいる。それが何であるかに気づくことが、最初の一歩であり、もっとも大きな一歩なのやもしれない。
こうして捨てたものは、環境を汚染することはないので分別の必要もない。どんどん捨てませう。
ちなみに、一流の乞食になる条件は、「名前を捨てられるかどうか」なんだって。なんてきびしい世界なんだろう。
また文化系の世界にも、茶道、華道、香道などがある。
はたと気がついた。音楽の世界にはそのようなものがない。この国のいわゆる邦楽や伝統芸能の世界にも、「道」の一文字が付くジャンルはない。不思議と言えば不思議だ。
では、ワタシが「道」付きの音楽というものを創始してしんぜよう。「揚琴道」「オカリナ道」「作曲道」でいかがか。
・・・「揚琴道」は、中国のどこかの山の中の「揚琴の先祖が伝わったと言われる道」みたいに思えるな。「オカリナ道」というのは字面にどうにもしまりがない。「御可理納道」とでもするか。「作曲道」と書けば、何か曲がった物を作る作業のようだ。とほほ。
それ以前に、「方向音痴が道を説くなど、何をえらそうにっ」と言われそうだな。
楽器の練習というものは、その気になれば日常生活といくらでもリンクできる。なかでも、「無駄な力を抜いて演奏する」という演奏の基礎、と言うかコツと言うかは、あらゆる場面に生かすことができる。それはそのまま、生活の質を高めることになると、ワタシは思う。すなわち、そこには「道」的な要素がある。
さて、「道」すなわち修行と聞けば、何かを身に付けるものだと思われがちなのではないか。が、「無駄な力を抜く」という行為と言うかコツと言うか作業は、何か新たなものを身に付けることではないのは明らかだ。それでいて、物事への取り組み方や考え方や人付き合いなど、生き方そのものにまで生かすことができる行為と言うかコツと言うか作業なのではないだろうか。
誰しも生まれてきたときは裸一貫、無一物。なにひとつとして無駄がない。それが、コンニチただいまの自分の周囲と中身を見やれば、なんと無駄の多いこと。
つまるところ、無駄な力を抜くとは、言い換えれば「捨てる」ことだ。人は、捨てられそうにないものを捨てることで、一歩前進できるときがある。どうしても無駄な力が抜けないとき、そこには何かを捨てられない自分がいる。それが何であるかに気づくことが、最初の一歩であり、もっとも大きな一歩なのやもしれない。
こうして捨てたものは、環境を汚染することはないので分別の必要もない。どんどん捨てませう。
ちなみに、一流の乞食になる条件は、「名前を捨てられるかどうか」なんだって。なんてきびしい世界なんだろう。
おしまい。
追 伸 _ 。_ 。_ 。_ 。_ 。_
昨年9月9日の「揚琴演奏的生活20周年感謝的自主コンサート」から、きょうでちょうど一年がたちました。重陽の日であり菊の節句のこの日、あの充実した一日を思い起こすと、再び感謝の気持ちでいっぱいになります。ご来場いただいた皆様、快くご本堂をお貸しくださった浄土院様には、変わらず充実した毎日を送らせていただいていることをご報告させていただき、厚く御礼申し上げます。
昨年9月9日の「揚琴演奏的生活20周年感謝的自主コンサート」から、きょうでちょうど一年がたちました。重陽の日であり菊の節句のこの日、あの充実した一日を思い起こすと、再び感謝の気持ちでいっぱいになります。ご来場いただいた皆様、快くご本堂をお貸しくださった浄土院様には、変わらず充実した毎日を送らせていただいていることをご報告させていただき、厚く御礼申し上げます。
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管理人について
HN:
巴だ リョウヘイ
性別:
非公開
職業:
揚琴・笛演奏屋 オカリナのセンセイ
趣味:
ほしい。
自己紹介:
演奏活動範囲/全国の都心から山間地まで。
演奏場所/ホールからお座敷まで。オカリナは野外歓迎。
演奏目的/オープニングセレモニーから追悼演奏まで。
演奏形態/独奏から異業種間共演まで。
所属事務所/Magnolia Music(自分的オフィス)
コンタクト方法/上記のホームページ(HP)の「FAQ & Form」のページからどうぞ。
特 技/晴れ男であること。
オカリナ倶楽部 “夢見るガチョウ” 主宰。
2018年、京都府下農村から大阪府下住宅街に移住。
今も雨乞い師見習い。
今も自然農見習い。
ノアのおとうちゃん。
演奏活動範囲/全国の都心から山間地まで。
演奏場所/ホールからお座敷まで。オカリナは野外歓迎。
演奏目的/オープニングセレモニーから追悼演奏まで。
演奏形態/独奏から異業種間共演まで。
所属事務所/Magnolia Music(自分的オフィス)
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