揚琴、オカリナ & インディアンフルート奏者がつづるいろいろばなし。
音楽、田舎暮らし、自然・環境、時事、ほかいろいろ。
どうぞ、ごゆっくり。
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最近、未来が勝手に心に浮かんでくることがよくある。
具体的にどんな未来なのか。
それはまだ多くを言葉にできずにいる。
が、なぜ未来が心に浮かんでくるのかは言えそうな気がする。
それはたぶん、現在が直面している途方もない危機に対し、ワタシが向き合う方法を変えようとしているからなのだ。
具体的にどんな未来なのか。
それはまだ多くを言葉にできずにいる。
が、なぜ未来が心に浮かんでくるのかは言えそうな気がする。
それはたぶん、現在が直面している途方もない危機に対し、ワタシが向き合う方法を変えようとしているからなのだ。
「現在」は、いつだって不安定だった。
不安定こそ現在の本質だ。
それを安定させようとするから、葛藤や苦痛や闘争が生まれる。
が、不安定なままでいられないのが人間だ。
あの手この手で、人を押しのけ、自然を食いつぶし、自分たちの安定を得ようとしてきた。
一時的なものに過ぎないと知りながら。
安定、すなわちあるべき未来。
が、それも限界。
何もかもがデフォルト寸前。
2012年6月22日。
首相官邸前に4万5千人が集まった。
「大飯原発再稼働反対」の声を上げた。
その大半は「個人」だった。
誰に強制されたのでもなく声を上げたぼう大な「個人」。
初めて組織によらず「個人」が中心になった、歴史的なデモ。
誰が呼んだか「紫陽花革命」。
脱原発の声の大多数は、組織や人間関係に依らず個人の意思で発せられている。
そこに違和感や嫌悪感を持つ人が、この国には多いのだと思う。
だから紫陽花革命と呼ばれるものがより大きなうねりになっていくには、立った個人が繋がっていく姿を示す必要があるのかもしれない。
そのつながりは、けっして出来合いの「絆」ではないはずだ。
「脱原発の声を上げる個人は、個人として立つがゆえに他の個人を尊重する。
そうして生まれる連帯は、自然発生的で受容的で非抑圧的で非依存的であるがゆえに融通無碍であるはずだ。
そして個人であることは孤独とは異なるということを証明する」…という夢。
そこここで生まれては繋がっていき、増殖していく、融通無碍で、生きたネットワーク…。
さて、震災と原発事故が、この国で個人の個人としての自覚の深まりを加速させているような気がしているのはワタシだけではない。
twitter などを見ていると、同じように感じている人が多くいることが実感される。
で、個人を自覚した人々がインターネット上で繋がるかどうかは大きな問題ではない。
銘々の個人が、リアルな身の回りで、身近な人や親しむべき物や風景とのつながりを再構築していけるかどうか。
これが崩壊寸前の現在を脱する鍵なのだと思う。
で、ふと思った。
ある未来を段階的に計画的に実現させようとするから闘争になる。
(なぜなら、そこには「個人」の「固定化した思い」が入り込むからだ)
それよりある未来のあり方に添ってさっさと現在を生き始めれば、その未来は自然に着いて来るんじゃないか。
一足先に未来に身を置いてしまうってことだ。
自然系循環型社会が必然だと思うならば、そのような社会での生き方を「今ここで」実践すればいい。
地産地消しかないと思うならば、一里四方的生産消費活動を「今ここで」始めればいい。
組織対抗型社会ではなく無限ネットワーク型社会こそが望ましいと思えば、そうした関係を「今ここで」築き始める。
この視点と行動が、すなわち未来からの視点と行動が、現在を導いてゆくんじゃないだろうか。
…論理も何も無い、「お告げ」のごとき文章でそれはよかった。
「舟を岸につなぎなさい」とおっしゃった人があった。
舟が滝壺へ落ちようとしているときに、舟の中で争っているバアイではない、と。
で、舟を岸につなぐには、舟の外からの視点で舟を、現在を見るしかない。
その視点こそが、未来からの視点ではないか。
その未来は、ずっと先の時代にあるのではない。
今ここにいる我々の中に存在する。
その未来を、可能性と言い換えてもいい。
それに目を向けてみる。
そしてそれに添って「今ここで」動き始める。
そのためには、自分が個人としてできることから始めるしかない。
そうすることがまた、個人を個人として磨いてゆく。
では、個人同士のつながりはどうなのか。
自分が「個」の人であろうとすればするほど、自然に他の「個」の人を尊重することになる。
するとそこには、ごく自然に精神的なつながりが生まれる。
そのつながりは、他者をしばらず、他者にしばられず、それゆえに互いを見守り、助け合い、その意味を知るに至る。
またそのつながりは、あらゆる存在との間において真であることが見いだされる。
それゆえに、完璧に安定している。
つまり、ありふれている。
不安定こそ現在の本質だ。
それを安定させようとするから、葛藤や苦痛や闘争が生まれる。
が、不安定なままでいられないのが人間だ。
あの手この手で、人を押しのけ、自然を食いつぶし、自分たちの安定を得ようとしてきた。
一時的なものに過ぎないと知りながら。
安定、すなわちあるべき未来。
が、それも限界。
何もかもがデフォルト寸前。
2012年6月22日。
首相官邸前に4万5千人が集まった。
「大飯原発再稼働反対」の声を上げた。
その大半は「個人」だった。
誰に強制されたのでもなく声を上げたぼう大な「個人」。
初めて組織によらず「個人」が中心になった、歴史的なデモ。
誰が呼んだか「紫陽花革命」。
脱原発の声の大多数は、組織や人間関係に依らず個人の意思で発せられている。
そこに違和感や嫌悪感を持つ人が、この国には多いのだと思う。
だから紫陽花革命と呼ばれるものがより大きなうねりになっていくには、立った個人が繋がっていく姿を示す必要があるのかもしれない。
そのつながりは、けっして出来合いの「絆」ではないはずだ。
「脱原発の声を上げる個人は、個人として立つがゆえに他の個人を尊重する。
そうして生まれる連帯は、自然発生的で受容的で非抑圧的で非依存的であるがゆえに融通無碍であるはずだ。
そして個人であることは孤独とは異なるということを証明する」…という夢。
そこここで生まれては繋がっていき、増殖していく、融通無碍で、生きたネットワーク…。
さて、震災と原発事故が、この国で個人の個人としての自覚の深まりを加速させているような気がしているのはワタシだけではない。
twitter などを見ていると、同じように感じている人が多くいることが実感される。
で、個人を自覚した人々がインターネット上で繋がるかどうかは大きな問題ではない。
銘々の個人が、リアルな身の回りで、身近な人や親しむべき物や風景とのつながりを再構築していけるかどうか。
これが崩壊寸前の現在を脱する鍵なのだと思う。
で、ふと思った。
ある未来を段階的に計画的に実現させようとするから闘争になる。
(なぜなら、そこには「個人」の「固定化した思い」が入り込むからだ)
それよりある未来のあり方に添ってさっさと現在を生き始めれば、その未来は自然に着いて来るんじゃないか。
一足先に未来に身を置いてしまうってことだ。
自然系循環型社会が必然だと思うならば、そのような社会での生き方を「今ここで」実践すればいい。
地産地消しかないと思うならば、一里四方的生産消費活動を「今ここで」始めればいい。
組織対抗型社会ではなく無限ネットワーク型社会こそが望ましいと思えば、そうした関係を「今ここで」築き始める。
この視点と行動が、すなわち未来からの視点と行動が、現在を導いてゆくんじゃないだろうか。
…論理も何も無い、「お告げ」のごとき文章でそれはよかった。
「舟を岸につなぎなさい」とおっしゃった人があった。
舟が滝壺へ落ちようとしているときに、舟の中で争っているバアイではない、と。
で、舟を岸につなぐには、舟の外からの視点で舟を、現在を見るしかない。
その視点こそが、未来からの視点ではないか。
その未来は、ずっと先の時代にあるのではない。
今ここにいる我々の中に存在する。
その未来を、可能性と言い換えてもいい。
それに目を向けてみる。
そしてそれに添って「今ここで」動き始める。
そのためには、自分が個人としてできることから始めるしかない。
そうすることがまた、個人を個人として磨いてゆく。
では、個人同士のつながりはどうなのか。
自分が「個」の人であろうとすればするほど、自然に他の「個」の人を尊重することになる。
するとそこには、ごく自然に精神的なつながりが生まれる。
そのつながりは、他者をしばらず、他者にしばられず、それゆえに互いを見守り、助け合い、その意味を知るに至る。
またそのつながりは、あらゆる存在との間において真であることが見いだされる。
それゆえに、完璧に安定している。
つまり、ありふれている。
おしまい。
12.06.25 記
12.06.25 記
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光を生きる
拍手の方から素敵なコメントをいただきましたので、ここに掲載させていただきます。
(拍手からのコメントは本来はコメント欄に反映されません)
_ _ _ _ _ _
脱原発のパレードや集会や講演会や、、どれにも違和感を感じそこに気持ちもエネルギーも向かず、かと言ってまるで何事も無かったかのように再稼働に突き進むこの国に居て、もやもやとした毎日を生きておりました。
このブログを読んで、少し目の前に光が射した気がします。
世の中が闇ならば、わたしは光を生きなければ いけないですね。
ナバホの祈り(松井るり子訳) 今、私は美の中を歩いていく 美は私の前にある 美は私の後ろにある 上にある 下にある
_ _ _ _ _ _
I.K.さん、ありがとうございました。
巴だ
(拍手からのコメントは本来はコメント欄に反映されません)
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脱原発のパレードや集会や講演会や、、どれにも違和感を感じそこに気持ちもエネルギーも向かず、かと言ってまるで何事も無かったかのように再稼働に突き進むこの国に居て、もやもやとした毎日を生きておりました。
このブログを読んで、少し目の前に光が射した気がします。
世の中が闇ならば、わたしは光を生きなければ いけないですね。
ナバホの祈り(松井るり子訳) 今、私は美の中を歩いていく 美は私の前にある 美は私の後ろにある 上にある 下にある
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I.K.さん、ありがとうございました。
巴だ
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管理人について
HN:
巴だ リョウヘイ
性別:
非公開
職業:
揚琴・笛演奏屋 オカリナのセンセイ
趣味:
ほしい。
自己紹介:
演奏活動範囲/全国の都心から山間地まで。
演奏場所/ホールからお座敷まで。オカリナは野外歓迎。
演奏目的/オープニングセレモニーから追悼演奏まで。
演奏形態/独奏から異業種間共演まで。
所属事務所/Magnolia Music(自分的オフィス)
コンタクト方法/上記のホームページ(HP)の「FAQ & Form」のページからどうぞ。
特 技/晴れ男であること。
オカリナ倶楽部 “夢見るガチョウ” 主宰。
2018年、京都府下農村から大阪府下住宅街に移住。
今も雨乞い師見習い。
今も自然農見習い。
ノアのおとうちゃん。
演奏活動範囲/全国の都心から山間地まで。
演奏場所/ホールからお座敷まで。オカリナは野外歓迎。
演奏目的/オープニングセレモニーから追悼演奏まで。
演奏形態/独奏から異業種間共演まで。
所属事務所/Magnolia Music(自分的オフィス)
コンタクト方法/上記のホームページ(HP)の「FAQ & Form」のページからどうぞ。
特 技/晴れ男であること。
オカリナ倶楽部 “夢見るガチョウ” 主宰。
2018年、京都府下農村から大阪府下住宅街に移住。
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