揚琴、オカリナ & インディアンフルート奏者がつづるいろいろばなし。
音楽、田舎暮らし、自然・環境、時事、ほかいろいろ。
どうぞ、ごゆっくり。
音楽、田舎暮らし、自然・環境、時事、ほかいろいろ。
どうぞ、ごゆっくり。
×
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
#333 棟方志功の礼
晩年の棟方志功の作画中の映像を見た。なんだ、これはっ。目にもとまらぬ筆さばきとはこのことだ。板画(棟方は版画を「板画」と表わす)の下絵もしかり、風景の写生もしかり。動きによどみは一切ない。そこにはなんの躊躇も迷いもない。「無心」が棟方の信条だが、それがどのような境地であるのかを垣間見せる筆さばきだった。
晩年の棟方志功の作画中の映像を見た。なんだ、これはっ。目にもとまらぬ筆さばきとはこのことだ。板画(棟方は版画を「板画」と表わす)の下絵もしかり、風景の写生もしかり。動きによどみは一切ない。そこにはなんの躊躇も迷いもない。「無心」が棟方の信条だが、それがどのような境地であるのかを垣間見せる筆さばきだった。
「牛乳ビンの底のようなメガネ」という言葉はもはや死語だが、棟方のメガネはまさにそれだ。たいへんな近眼ゆえ、板を彫るときは目を板に10cmほどにまで近づける。その彫り方も、目にもとまらぬスピードだ。無心というよりも、何かに取り憑かれていると言った方がぴったりだ。
牛乳ビンメガネと目にもとまらぬ筆さばき・彫刻刀さばきとの関係は、実に不思議だ。あの視力では、大きな画の全体を細部まで見ることはどうやってもできない。実際、作画中の棟方の視線は、筆や彫刻刀のごく周辺しか見ていない。それでいて、どうやって全体を仕上げるのか。
モーツァルトを思い出す。モーツァルトは、曲の着想を得たとき、最初の音から最後の音までが一瞬のうちに「見えた」という。
棟方の画も、そのような境地で描かれているのではないだろうか。
海辺で遠くの風景をスケッチする棟方は、ますます不思議だった。筆先だけを凝視しながら筆を走らせているかと思えば、鹿がひょこっと首を伸ばしてよく見えない目で遠くを見るときのように、ふと遠くの対象へ目をやる。その所作はほんの一瞬のことで、すぐさま絵に目と筆を走らせる。
遠くの風景を見ているとき、棟方のよく見えない目には何が見えているのか。これは愚問だ。何を見ていたのかは、絵を見ればわかる。その絵がいかにこの世離れして見えたとしても、棟方にはそのように見えていたにちがいないのだ。それが、画家の目というものだ。
画家は、肉体の目だけで対象を見るのではない。心の目、心眼で見る。心眼が映し出す映像は、肉体の目が捉えるような「形」ではない。それは、物の「本質」だと言われる。
本質と言っても、それはけっして固定されたものではない。移ろいつづけるがゆえに不変・普遍であるところの存在なのだ。そしてそれは、画家という媒体を通して様々な姿に変容して顕われる。
海辺での写生が終わった。最後の一筆をすっと抜くと、棟方は「うん」と小さくうなずき、筆を置いた。出来上がった絵を改めて見直すことはない。そして、帽子を取って、軽く一礼した。その一礼は、画に向かってなのか対象に向かってなのか、あるいはそれらすべての向こうにある存在に対してだったのか。そのあまりに自然でてらいのない一礼は、ワタシの心の居住まいを正させた。
写生が終わって送迎の車に乗り込もうとする棟方は、何やら歌っていた。そしてそのうち、歌いながら踊り出した。その姿は、ただの酔っぱらった百姓のオヤジだった。
いつのことだったか、棟方志功展で紹介されていたエピソード。河井寛次郎が若き棟方志功を見いだしたとき、柳宗悦に電報を打ったそうだ。
「バケモノガデタ スグコイ」
化け物の正体は仏の使いなのか、百姓のオヤジなのか。
牛乳ビンメガネと目にもとまらぬ筆さばき・彫刻刀さばきとの関係は、実に不思議だ。あの視力では、大きな画の全体を細部まで見ることはどうやってもできない。実際、作画中の棟方の視線は、筆や彫刻刀のごく周辺しか見ていない。それでいて、どうやって全体を仕上げるのか。
モーツァルトを思い出す。モーツァルトは、曲の着想を得たとき、最初の音から最後の音までが一瞬のうちに「見えた」という。
棟方の画も、そのような境地で描かれているのではないだろうか。
海辺で遠くの風景をスケッチする棟方は、ますます不思議だった。筆先だけを凝視しながら筆を走らせているかと思えば、鹿がひょこっと首を伸ばしてよく見えない目で遠くを見るときのように、ふと遠くの対象へ目をやる。その所作はほんの一瞬のことで、すぐさま絵に目と筆を走らせる。
遠くの風景を見ているとき、棟方のよく見えない目には何が見えているのか。これは愚問だ。何を見ていたのかは、絵を見ればわかる。その絵がいかにこの世離れして見えたとしても、棟方にはそのように見えていたにちがいないのだ。それが、画家の目というものだ。
画家は、肉体の目だけで対象を見るのではない。心の目、心眼で見る。心眼が映し出す映像は、肉体の目が捉えるような「形」ではない。それは、物の「本質」だと言われる。
本質と言っても、それはけっして固定されたものではない。移ろいつづけるがゆえに不変・普遍であるところの存在なのだ。そしてそれは、画家という媒体を通して様々な姿に変容して顕われる。
海辺での写生が終わった。最後の一筆をすっと抜くと、棟方は「うん」と小さくうなずき、筆を置いた。出来上がった絵を改めて見直すことはない。そして、帽子を取って、軽く一礼した。その一礼は、画に向かってなのか対象に向かってなのか、あるいはそれらすべての向こうにある存在に対してだったのか。そのあまりに自然でてらいのない一礼は、ワタシの心の居住まいを正させた。
写生が終わって送迎の車に乗り込もうとする棟方は、何やら歌っていた。そしてそのうち、歌いながら踊り出した。その姿は、ただの酔っぱらった百姓のオヤジだった。
いつのことだったか、棟方志功展で紹介されていたエピソード。河井寛次郎が若き棟方志功を見いだしたとき、柳宗悦に電報を打ったそうだ。
「バケモノガデタ スグコイ」
化け物の正体は仏の使いなのか、百姓のオヤジなのか。
Chategory
太 陽 暦
12 | 2025/01 | 02 |
S | M | T | W | T | F | S |
---|---|---|---|---|---|---|
1 | 2 | 3 | 4 | |||
5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 |
12 | 13 | 14 | 15 | 16 | 17 | 18 |
19 | 20 | 21 | 22 | 23 | 24 | 25 |
26 | 27 | 28 | 29 | 30 | 31 |
管理人について
HN:
巴だ リョウヘイ
性別:
非公開
職業:
揚琴・笛演奏屋 オカリナのセンセイ
趣味:
ほしい。
自己紹介:
演奏活動範囲/全国の都心から山間地まで。
演奏場所/ホールからお座敷まで。オカリナは野外歓迎。
演奏目的/オープニングセレモニーから追悼演奏まで。
演奏形態/独奏から異業種間共演まで。
所属事務所/Magnolia Music(自分的オフィス)
コンタクト方法/上記のホームページ(HP)の「FAQ & Form」のページからどうぞ。
特 技/晴れ男であること。
オカリナ倶楽部 “夢見るガチョウ” 主宰。
2018年、京都府下農村から大阪府下住宅街に移住。
今も雨乞い師見習い。
今も自然農見習い。
ノアのおとうちゃん。
演奏活動範囲/全国の都心から山間地まで。
演奏場所/ホールからお座敷まで。オカリナは野外歓迎。
演奏目的/オープニングセレモニーから追悼演奏まで。
演奏形態/独奏から異業種間共演まで。
所属事務所/Magnolia Music(自分的オフィス)
コンタクト方法/上記のホームページ(HP)の「FAQ & Form」のページからどうぞ。
特 技/晴れ男であること。
オカリナ倶楽部 “夢見るガチョウ” 主宰。
2018年、京都府下農村から大阪府下住宅街に移住。
今も雨乞い師見習い。
今も自然農見習い。
ノアのおとうちゃん。
New Entry
(08/20)
(04/18)
(05/17)
(09/04)
(08/31)
(04/24)
(04/19)
New Comments
※ 非公開を希望される方はその旨お書きください。
[09/10 水戸ふぢ]
[09/05 森下知子]
[07/17 Kitty]
[05/31 Kitty]
[04/17 Kitty]
[03/13 巴だ]
[12/08 栗美]
ブログ内検索
New Track Back
Archives
ようこそ