揚琴、オカリナ & インディアンフルート奏者がつづるいろいろばなし。
音楽、田舎暮らし、自然・環境、時事、ほかいろいろ。
どうぞ、ごゆっくり。
音楽、田舎暮らし、自然・環境、時事、ほかいろいろ。
どうぞ、ごゆっくり。
×
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
#497 百芸的快楽
実は前便を書いたときは、睡魔に支配されてもうろうとしていた。だからだろう、きょう読み返してみて、大切なことを書き落としていたことに気づいた。大切なことと言うくらいではまだ足りない。「一芸は百芸に通ず」という言葉の本質的な事柄についての記述が、ぽろりと抜け落ちていたのだ。虫歯も、こんな風にうつらうつらしている間にぽろりと抜け落ちてくれたらいいのにね。
実は前便を書いたときは、睡魔に支配されてもうろうとしていた。だからだろう、きょう読み返してみて、大切なことを書き落としていたことに気づいた。大切なことと言うくらいではまだ足りない。「一芸は百芸に通ず」という言葉の本質的な事柄についての記述が、ぽろりと抜け落ちていたのだ。虫歯も、こんな風にうつらうつらしている間にぽろりと抜け落ちてくれたらいいのにね。
さてもさても、「一芸は百芸に通ず」という言葉は、基礎と応用という物作り作業の根本を見事に言い表している言葉であることを言わずになんとする。すなわち、一芸を極める過程で必然的に基礎が身に付き、その基礎の「エッセンス」は物作り全般の基礎であり、したがって他の物作り作業などに応用が可能である、ということだ。
だから、前便で書いた「相乗効果」や「音楽、料理、文章、お米作り・・・まったく、みんな同じだと感じる」などについては、基礎と応用についての記述から順にていねいに話を組み立てていった後に述べるべきだっただろうと思う。すみません、と誰にともなく謝る。
んでは、音楽の基礎がお米作りにどのように応用されたか。実は、そういうことまでここで書くのは僭越だという思いがどこかにある。というのも、一芸で得た基礎を応用することとはいかにも簡単なことではなく、そしてあまりにも楽しいことだからだ。それをここで書いてしまえば、あたかも「一芸」で得たものを応用することでいとも簡単に他の専門分野を征服できるかのような誤解を受けかねないし、また人様の楽しみを奪ってしまうことにもなりかねないと、少々危惧するのだ。
それに、お米作りにしても料理にしても文章にしても、ワタシにとっては「百芸」に位置するものだ。ワタシが人様にきちんと伝えられるものと言えば、「一芸」を極めようとする道を歩んでいるつもりである音楽だけだと思う。
だから、マイ田んぼでのお米作りについてたくさん書いてきたけれど、それらはアマチュアがいとも簡単にプロの技を批判することと同レベルの態度であることを重々承知した上で、あくまで初心者の世界の出来事として書いているつもりだ。だからこそ、ちょっとした成功を子どものように喜ぶことを自分に許せるし、小さな失敗に失恋したかのように落ち込む自分を愛でることもできる。聞きかじりの知識を自らの体験を通して得た財産のようにも扱えるし、きのう定めた方針をきょう変更しても何ら恥じることはない。それらはすなわち、「百芸」に初心者としてたずさわる際に、知識と実際との間にある測り知れないほどの距離を知るからこそ自分に許すことができる内面の自由なのだと自覚している。そしてその自覚はもちろん、「一芸」を極めようとする道から得た理解が育んだものなのだ。
ところでワタシのバアイ、人様に自分が歩んできた道を示し、そこで見たこと聴いたこととその道の歩み方を教えるという立場でもある。この教えるという作業は、自分の歩みを確認しフィードバックする過程となりうる。その過程を重ねることで、音楽を教えるという作業は、ワタシにとってはもはや「百芸」ではなく「一芸」の一部となった感がある。
こんな風に、いくつもの作業に「百芸」のひとつとして関わり続けるうちに、「一芸」「百芸」という垣根は知らず知らず消え去って、すべては一芸として溶け合っていくのだらふか。それは、ワタシにとっては望む所だ。そうなって初めて「生活」の真の意味が見え、すべてが快楽になりそうに思えるからだ。
修行マニアが想う修行とは、快楽と一体型なんだとさ。
だから、前便で書いた「相乗効果」や「音楽、料理、文章、お米作り・・・まったく、みんな同じだと感じる」などについては、基礎と応用についての記述から順にていねいに話を組み立てていった後に述べるべきだっただろうと思う。すみません、と誰にともなく謝る。
んでは、音楽の基礎がお米作りにどのように応用されたか。実は、そういうことまでここで書くのは僭越だという思いがどこかにある。というのも、一芸で得た基礎を応用することとはいかにも簡単なことではなく、そしてあまりにも楽しいことだからだ。それをここで書いてしまえば、あたかも「一芸」で得たものを応用することでいとも簡単に他の専門分野を征服できるかのような誤解を受けかねないし、また人様の楽しみを奪ってしまうことにもなりかねないと、少々危惧するのだ。
それに、お米作りにしても料理にしても文章にしても、ワタシにとっては「百芸」に位置するものだ。ワタシが人様にきちんと伝えられるものと言えば、「一芸」を極めようとする道を歩んでいるつもりである音楽だけだと思う。
だから、マイ田んぼでのお米作りについてたくさん書いてきたけれど、それらはアマチュアがいとも簡単にプロの技を批判することと同レベルの態度であることを重々承知した上で、あくまで初心者の世界の出来事として書いているつもりだ。だからこそ、ちょっとした成功を子どものように喜ぶことを自分に許せるし、小さな失敗に失恋したかのように落ち込む自分を愛でることもできる。聞きかじりの知識を自らの体験を通して得た財産のようにも扱えるし、きのう定めた方針をきょう変更しても何ら恥じることはない。それらはすなわち、「百芸」に初心者としてたずさわる際に、知識と実際との間にある測り知れないほどの距離を知るからこそ自分に許すことができる内面の自由なのだと自覚している。そしてその自覚はもちろん、「一芸」を極めようとする道から得た理解が育んだものなのだ。
ところでワタシのバアイ、人様に自分が歩んできた道を示し、そこで見たこと聴いたこととその道の歩み方を教えるという立場でもある。この教えるという作業は、自分の歩みを確認しフィードバックする過程となりうる。その過程を重ねることで、音楽を教えるという作業は、ワタシにとってはもはや「百芸」ではなく「一芸」の一部となった感がある。
こんな風に、いくつもの作業に「百芸」のひとつとして関わり続けるうちに、「一芸」「百芸」という垣根は知らず知らず消え去って、すべては一芸として溶け合っていくのだらふか。それは、ワタシにとっては望む所だ。そうなって初めて「生活」の真の意味が見え、すべてが快楽になりそうに思えるからだ。
修行マニアが想う修行とは、快楽と一体型なんだとさ。
Chategory
太 陽 暦
11 | 2024/12 | 01 |
S | M | T | W | T | F | S |
---|---|---|---|---|---|---|
1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 |
8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 |
15 | 16 | 17 | 18 | 19 | 20 | 21 |
22 | 23 | 24 | 25 | 26 | 27 | 28 |
29 | 30 | 31 |
管理人について
HN:
巴だ リョウヘイ
性別:
非公開
職業:
揚琴・笛演奏屋 オカリナのセンセイ
趣味:
ほしい。
自己紹介:
演奏活動範囲/全国の都心から山間地まで。
演奏場所/ホールからお座敷まで。オカリナは野外歓迎。
演奏目的/オープニングセレモニーから追悼演奏まで。
演奏形態/独奏から異業種間共演まで。
所属事務所/Magnolia Music(自分的オフィス)
コンタクト方法/上記のホームページ(HP)の「FAQ & Form」のページからどうぞ。
特 技/晴れ男であること。
オカリナ倶楽部 “夢見るガチョウ” 主宰。
2018年、京都府下農村から大阪府下住宅街に移住。
今も雨乞い師見習い。
今も自然農見習い。
ノアのおとうちゃん。
演奏活動範囲/全国の都心から山間地まで。
演奏場所/ホールからお座敷まで。オカリナは野外歓迎。
演奏目的/オープニングセレモニーから追悼演奏まで。
演奏形態/独奏から異業種間共演まで。
所属事務所/Magnolia Music(自分的オフィス)
コンタクト方法/上記のホームページ(HP)の「FAQ & Form」のページからどうぞ。
特 技/晴れ男であること。
オカリナ倶楽部 “夢見るガチョウ” 主宰。
2018年、京都府下農村から大阪府下住宅街に移住。
今も雨乞い師見習い。
今も自然農見習い。
ノアのおとうちゃん。
New Entry
(08/20)
(04/18)
(05/17)
(09/04)
(08/31)
(04/24)
(04/19)
New Comments
※ 非公開を希望される方はその旨お書きください。
[09/10 水戸ふぢ]
[09/05 森下知子]
[07/17 Kitty]
[05/31 Kitty]
[04/17 Kitty]
[03/13 巴だ]
[12/08 栗美]
ブログ内検索
New Track Back
Archives
ようこそ