揚琴、オカリナ & インディアンフルート奏者がつづるいろいろばなし。
音楽、田舎暮らし、自然・環境、時事、ほかいろいろ。
どうぞ、ごゆっくり。
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#607 弾かず、吹かず。
長谷川等伯展を鑑賞する機会を得た。この変幻自在の絵師を理解することは容易ではないと踏んでいた。そしてその思いは、膨大な作品がほぼ年代順に展示された部屋を奥へと進むに連れて深まっていった。が、展覧会の最後の部屋に置かれた一対の作品と対峙したとき、それまでの思いは瓦解した。絵師を理解することなど無用だった。ただ、作品と共にあればいいのであった。
長谷川等伯展を鑑賞する機会を得た。この変幻自在の絵師を理解することは容易ではないと踏んでいた。そしてその思いは、膨大な作品がほぼ年代順に展示された部屋を奥へと進むに連れて深まっていった。が、展覧会の最後の部屋に置かれた一対の作品と対峙したとき、それまでの思いは瓦解した。絵師を理解することなど無用だった。ただ、作品と共にあればいいのであった。
人間の想像する力が発する膨大なエネルギー。それは、絵画や文学作品、演劇、そして科学において顕著に表れるような気がする。長谷川等伯の尋常ならぬ想像力は、仏画においても発揮されている。数多くの仏画に描かれた一人一人の仏のまなざし、口元、眉の動き。それらには、等伯の篤い信仰に端を発する想像力の結実として「良き人間像」が描かれていた。その想像力は、深い人間観察に基づいているにちがいない。多くの仏画が描かれたのは等伯二十代の頃だ。二十代にしてこの深い人間観察がいかに成され得たのか。それは知る由もない。が、その力がのちの千利休らの肖像画にも結晶していることは見て取れた。
等伯が描く人物には歴史的にはマイナーな人物も多い。で、それらは「あっ、こんな顔のおっさん、よく見るぞ」てな感じだ。とすれば、その人物たちの顔はかなりリアルに描かれていると判断してもそう大きな過ちではあるまい。
その線から利休の肖像を検証すれば、利休もまたかなりリアルに描かれているのであろう、つまり千利休という人はここに描かれたような風貌であったにちがいないと考えてよいように思う。
肖像画についての記述が長くなったが、本題はこれではない。
最後の間、動きが止まった人混みの中で「松林図屏風」に対峙したとき、すべての思考が止まったような気がした。そこに描かれていたのは、松の木ではなく、静寂と「無」だった。それは、絵師がクリシュナムルティー言うところの「大いなる沈黙」の中にありつづけたことを、雄弁に、あるいは密やかに物語っていた。
深い沈黙の内にある作者によって描かれた作品を前にして、考えたり想像したりすることは無意味だ。鑑賞者は、ただただ沈黙の内に作品と共にあるしかない。そうすることによってのみ、作者の境地を共有できる可能性が芽生える。
そこでは、「無」を描くという矛盾がまったく矛盾ではなくなっていた。「無」は、描かれていないがゆえに、そこに描かれていた。そしてその「無」は、何ものも存在しない空白の「無」ではなく、万物の根源である生きた「無」であった。
この一対の屏風は、水墨画の空前絶後の技法によって、松林に漂う霧が描かれているとされることが多い。が、そこに描かれている霧はただの霧ではない。その霧こそが「無」なのだ。そして「無」を描き出しているものは、絶妙に配置された十数本の松だけだった。
仏画に始まり水墨画に終わった等伯の絵師人生。そこに一環して流れていたのは、日蓮宗への篤い信仰だ。日蓮宗であれ浄土宗であれ、仏教は般若心経に集約される。その核心である「色即是空、空即是色」。等伯の松林図屏風にその真意を垣間見たような気がするワタシ。等伯に宿った圧倒的な沈黙のいくばくかが、絵に対峙したワタシにも宿ったのだらふか。
この絵が四百年という時空を越えて今日のわれわれに何かを垣間見せるのは、そこに描かれているものが「無」すなわち無限の奥行き、無限の時間であるからにちがいない。
閉館時刻間際にこの間に進んだことを後悔した。この絵の前に永遠に佇みつづけたい、そんな思いを胸に、京都国立博物館を後にした。帰路ではもちろん、描かずに表わすという等伯の技法を音楽に置き換えるとどうなるかを改めて考察して、興奮しつづけていた。「弾かずに表わす」「吹かずに表わす」それは楽でよかった、とさ。
等伯が描く人物には歴史的にはマイナーな人物も多い。で、それらは「あっ、こんな顔のおっさん、よく見るぞ」てな感じだ。とすれば、その人物たちの顔はかなりリアルに描かれていると判断してもそう大きな過ちではあるまい。
その線から利休の肖像を検証すれば、利休もまたかなりリアルに描かれているのであろう、つまり千利休という人はここに描かれたような風貌であったにちがいないと考えてよいように思う。
肖像画についての記述が長くなったが、本題はこれではない。
最後の間、動きが止まった人混みの中で「松林図屏風」に対峙したとき、すべての思考が止まったような気がした。そこに描かれていたのは、松の木ではなく、静寂と「無」だった。それは、絵師がクリシュナムルティー言うところの「大いなる沈黙」の中にありつづけたことを、雄弁に、あるいは密やかに物語っていた。
深い沈黙の内にある作者によって描かれた作品を前にして、考えたり想像したりすることは無意味だ。鑑賞者は、ただただ沈黙の内に作品と共にあるしかない。そうすることによってのみ、作者の境地を共有できる可能性が芽生える。
そこでは、「無」を描くという矛盾がまったく矛盾ではなくなっていた。「無」は、描かれていないがゆえに、そこに描かれていた。そしてその「無」は、何ものも存在しない空白の「無」ではなく、万物の根源である生きた「無」であった。
この一対の屏風は、水墨画の空前絶後の技法によって、松林に漂う霧が描かれているとされることが多い。が、そこに描かれている霧はただの霧ではない。その霧こそが「無」なのだ。そして「無」を描き出しているものは、絶妙に配置された十数本の松だけだった。
仏画に始まり水墨画に終わった等伯の絵師人生。そこに一環して流れていたのは、日蓮宗への篤い信仰だ。日蓮宗であれ浄土宗であれ、仏教は般若心経に集約される。その核心である「色即是空、空即是色」。等伯の松林図屏風にその真意を垣間見たような気がするワタシ。等伯に宿った圧倒的な沈黙のいくばくかが、絵に対峙したワタシにも宿ったのだらふか。
この絵が四百年という時空を越えて今日のわれわれに何かを垣間見せるのは、そこに描かれているものが「無」すなわち無限の奥行き、無限の時間であるからにちがいない。
閉館時刻間際にこの間に進んだことを後悔した。この絵の前に永遠に佇みつづけたい、そんな思いを胸に、京都国立博物館を後にした。帰路ではもちろん、描かずに表わすという等伯の技法を音楽に置き換えるとどうなるかを改めて考察して、興奮しつづけていた。「弾かずに表わす」「吹かずに表わす」それは楽でよかった、とさ。
やはり本物は・・・
お久しぶりに失礼致します
そうでか~行かれたのですね~
ご覧になってのですね~
わたくしめも気になっておりました「松林図屏風」
その空間が…
一説によるとどこかの禅寺の襖絵だったとか・・・
このころの屏風は左だか、右から春夏秋冬が描かれるものだとか
ある雑誌でこの書かれていたのです
そんなことより、本物と対峙され、そこからインスピレーション?感じ、イマジネーション?をかきたてられ、琴線に触れられたのことがうらやましく
わたくしめもこちらのブログを拝見し、それまでより強く、本物と対峙したくなったのであります。
そうでか~行かれたのですね~
ご覧になってのですね~
わたくしめも気になっておりました「松林図屏風」
その空間が…
一説によるとどこかの禅寺の襖絵だったとか・・・
このころの屏風は左だか、右から春夏秋冬が描かれるものだとか
ある雑誌でこの書かれていたのです
そんなことより、本物と対峙され、そこからインスピレーション?感じ、イマジネーション?をかきたてられ、琴線に触れられたのことがうらやましく
わたくしめもこちらのブログを拝見し、それまでより強く、本物と対峙したくなったのであります。
Re:やはり本物は・・・
りnさま
本物と対峙される機会が訪れることを、切に祈っておりまする。
午前中がすいているそうですが、会期が短いのが残念ですね。
等伯が目指した「静かなる絵」の集大成、てことで、
「静かなる音楽、これっきゃないっ」
と短絡したワタシ。
本物と対峙される機会が訪れることを、切に祈っておりまする。
午前中がすいているそうですが、会期が短いのが残念ですね。
等伯が目指した「静かなる絵」の集大成、てことで、
「静かなる音楽、これっきゃないっ」
と短絡したワタシ。
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巴だ リョウヘイ
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非公開
職業:
揚琴・笛演奏屋 オカリナのセンセイ
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ほしい。
自己紹介:
演奏活動範囲/全国の都心から山間地まで。
演奏場所/ホールからお座敷まで。オカリナは野外歓迎。
演奏目的/オープニングセレモニーから追悼演奏まで。
演奏形態/独奏から異業種間共演まで。
所属事務所/Magnolia Music(自分的オフィス)
コンタクト方法/上記のホームページ(HP)の「FAQ & Form」のページからどうぞ。
特 技/晴れ男であること。
オカリナ倶楽部 “夢見るガチョウ” 主宰。
2018年、京都府下農村から大阪府下住宅街に移住。
今も雨乞い師見習い。
今も自然農見習い。
ノアのおとうちゃん。
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