揚琴、オカリナ & インディアンフルート奏者がつづるいろいろばなし。
音楽、田舎暮らし、自然・環境、時事、ほかいろいろ。
どうぞ、ごゆっくり。
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#414 プラス思考の果てに
前便で、映画「ガンジー」について書いた。で、この映画には出てこない、ガンジーにまつわるたいへん重要なエピソードがある。それは、ガンジーがすべての人が寺院に入れるよう運動していた折りに、ガンジーがある青年に「この問題をどう思うか」とたずねたときのこと。その青年は「神は寺院にはおりません。誰が入るかは問題ではないのです」と答えたのだ。
前便で、映画「ガンジー」について書いた。で、この映画には出てこない、ガンジーにまつわるたいへん重要なエピソードがある。それは、ガンジーがすべての人が寺院に入れるよう運動していた折りに、ガンジーがある青年に「この問題をどう思うか」とたずねたときのこと。その青年は「神は寺院にはおりません。誰が入るかは問題ではないのです」と答えたのだ。
ガンジーの独立闘争は、多分にナショナリズムに訴える面が強かった。ナショナリズムは、多民族・多宗教国家であったインドがイギリスという共通の敵に対抗する際には、宗教や生活習慣を異にする人々が共闘するための大きな推進力となった。が、ナショナリズムの根源は排他性だ。したがって、ナショナリズムの鼓舞は人々が持つ排他性を助長する。それゆえに、独立運動がインドの独立が達成された後に異宗教同士の対立へと移行したことは必然だろう。ここに、ガンジーの最大の葛藤と苦悩があったのではないか。
さて、ガンジーの問いに対して「神は寺院にはおりません。誰が入るかは問題ではないのです」と答えたのは、インド人のジッドゥ・クリシュナムルティーという人だった。既存の宗教の無用性を説き、人類に今日のすべての問題の根源とそれを解決するための新たな道を示しつづけた人だ。その「教え」の入口をあえて要約するならば「あらゆる苦難、苦悩を克服するために誰かの『教え』を乞う必要はない。答は常に自分の目の前にある。自分自身の問題は人類すべての問題であり、他者の問題は自分自身の問題である。それゆえに自分自身を観察することによってのみ、人間のすべての問題を解決し苦悩を克服する道が見つかる」というものだ。
ワタシは、ガンジーの映画を見ながら、ずっとクリシュナムルティーのことを考えていた。「神は寺院にはいない」との指摘。それはもちろん無神論ではなく、真の神的存在が有ることを暗示している。そしてその言葉の背後にある洞察こそが、真の革命であるとワタシは思う。
クリシュナムルティーによれば、「既成の神」こそが排他性や執着や自己欺瞞などの多くの災厄を生み出しているのだ。それゆえにガンジーの闘争は、クリシュナムルティには数ある政治的闘争のひとつとしか映っていなかったようだ。
ところで、ガンジーの「戦うべき敵は常に自分の内にいる」との思想は、一見クリシュナムルティーの教えと重なる。が、クリシュナムルティーは、自身の内にある「敵」とは戦うのではなく、それをただ見つめ、受け入れよ、と説く。そうすることで敵の本当の姿を理解でき、その瞬間に敵は消え失せると言うのだ。それは、ガンジーのプラス思考を超えた「オメガ思考」とでも言えそうだ。
が、これを「思考」と言うのはクリシュナムルティによれば正しくない。クリシュナムルティは、真実は絶対に思考によって理解できるものではないと言いつづけてきたからだ。つまり、真実とはプラス思考の果てにあるものではないということだ。
ガンジーは、もし暗殺されなければ、いずれそのプラス思考の果てにある壁の前に立ち、クリシュナムルティーの教えを理解しようとしたやもしれない。あるいは、ガンジーが撃たれたときに言った「Oh, God」は、「普通の人」であったガンジーが死に際して真の神を見たことの表現だったのやもしれない。
いずれにしても、ワタシは世界中の人間の苦悩を背負って立ったガンジーに共感すると同時に、同じく普通の人間として、ガンジーのようには苦悩を深められないこと、クリシュナムルティのようには心のコペルニクス的転換をなし得ないであろうことのやるせなさを感じるのだ。
インド人ってすごいね。
きょうの気分はこんなところで。
↓
さて、ガンジーの問いに対して「神は寺院にはおりません。誰が入るかは問題ではないのです」と答えたのは、インド人のジッドゥ・クリシュナムルティーという人だった。既存の宗教の無用性を説き、人類に今日のすべての問題の根源とそれを解決するための新たな道を示しつづけた人だ。その「教え」の入口をあえて要約するならば「あらゆる苦難、苦悩を克服するために誰かの『教え』を乞う必要はない。答は常に自分の目の前にある。自分自身の問題は人類すべての問題であり、他者の問題は自分自身の問題である。それゆえに自分自身を観察することによってのみ、人間のすべての問題を解決し苦悩を克服する道が見つかる」というものだ。
ワタシは、ガンジーの映画を見ながら、ずっとクリシュナムルティーのことを考えていた。「神は寺院にはいない」との指摘。それはもちろん無神論ではなく、真の神的存在が有ることを暗示している。そしてその言葉の背後にある洞察こそが、真の革命であるとワタシは思う。
クリシュナムルティーによれば、「既成の神」こそが排他性や執着や自己欺瞞などの多くの災厄を生み出しているのだ。それゆえにガンジーの闘争は、クリシュナムルティには数ある政治的闘争のひとつとしか映っていなかったようだ。
ところで、ガンジーの「戦うべき敵は常に自分の内にいる」との思想は、一見クリシュナムルティーの教えと重なる。が、クリシュナムルティーは、自身の内にある「敵」とは戦うのではなく、それをただ見つめ、受け入れよ、と説く。そうすることで敵の本当の姿を理解でき、その瞬間に敵は消え失せると言うのだ。それは、ガンジーのプラス思考を超えた「オメガ思考」とでも言えそうだ。
が、これを「思考」と言うのはクリシュナムルティによれば正しくない。クリシュナムルティは、真実は絶対に思考によって理解できるものではないと言いつづけてきたからだ。つまり、真実とはプラス思考の果てにあるものではないということだ。
ガンジーは、もし暗殺されなければ、いずれそのプラス思考の果てにある壁の前に立ち、クリシュナムルティーの教えを理解しようとしたやもしれない。あるいは、ガンジーが撃たれたときに言った「Oh, God」は、「普通の人」であったガンジーが死に際して真の神を見たことの表現だったのやもしれない。
いずれにしても、ワタシは世界中の人間の苦悩を背負って立ったガンジーに共感すると同時に、同じく普通の人間として、ガンジーのようには苦悩を深められないこと、クリシュナムルティのようには心のコペルニクス的転換をなし得ないであろうことのやるせなさを感じるのだ。
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管理人について
HN:
巴だ リョウヘイ
性別:
非公開
職業:
揚琴・笛演奏屋 オカリナのセンセイ
趣味:
ほしい。
自己紹介:
演奏活動範囲/全国の都心から山間地まで。
演奏場所/ホールからお座敷まで。オカリナは野外歓迎。
演奏目的/オープニングセレモニーから追悼演奏まで。
演奏形態/独奏から異業種間共演まで。
所属事務所/Magnolia Music(自分的オフィス)
コンタクト方法/上記のホームページ(HP)の「FAQ & Form」のページからどうぞ。
特 技/晴れ男であること。
オカリナ倶楽部 “夢見るガチョウ” 主宰。
2018年、京都府下農村から大阪府下住宅街に移住。
今も雨乞い師見習い。
今も自然農見習い。
ノアのおとうちゃん。
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