揚琴、オカリナ & インディアンフルート奏者がつづるいろいろばなし。
音楽、田舎暮らし、自然・環境、時事、ほかいろいろ。
どうぞ、ごゆっくり。
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結論から言うと、妙味とは心の状態のことなのだと思う。
音楽の妙味、料理の妙味などと言う場合、その妙味は音や素材の中にあるのではなく、それらと感じる人との関係の中にある。
音楽や料理を、ただ聴いた、味わっただけではなく、心の深くまで何かが届いた状態。
これが、妙味にふれた状態だというのが、ワタシの定義でそれはすみません。
音楽の妙味、料理の妙味などと言う場合、その妙味は音や素材の中にあるのではなく、それらと感じる人との関係の中にある。
音楽や料理を、ただ聴いた、味わっただけではなく、心の深くまで何かが届いた状態。
これが、妙味にふれた状態だというのが、ワタシの定義でそれはすみません。
ところで、ウチの仏壇にはふたつの鈴がある。
鈴は二度鳴らすのが一般的だ。
で、ウチの場合、ふたつの鈴を一度ずつ鳴らす。
無作法やもしれないが、少し訳があるのだ。
ひとつの鈴は、母が亡くなって仏壇を作ったときに一緒にそろえたものだ。
高くてよく通る音がする。
もうひとつの鈴は、ワタシが子どもの頃から父方の祖父をまつった仏壇にあったものだ。
やや低く、落ち着いた澄んだ音色を持っている。
ワタシは祖母が鳴らすこの鈴の音を聴いて育った。
この鈴は、言わばワタシの原風景ならぬ原音風景のひとつ、巴だ家の音色だと言ってもいい。
そんなわけで、始めは母を、次いで父もまつることになった仏壇には、ふたつの鈴の音色が捧げられることとなった。
ふたつの鈴を続けて鳴らすと、「ワーン、ワーン、ワーン・・・」とうなりが生じる。
それぞれの鈴を打つ強さによって、うなりも変化する。
つまり、音色は毎日鳴らすたびに変化する。
このふたつの鈴の音色を余韻が消えるまで聴くことは、ワタシの日々のワークのひとつになっている。
演奏の基本「聴くこと」と音楽の原点「静寂」を確認することが主な目的だ。
で、今便のテーマ「妙味」について。
その前に、話変わって昨夜のこと。
ツイッターで、東京で割烹を営む人のツイートに出会った。
「真味」を目指し、嘘が無い料理を作るとある。
素材を大事にはするが、こだわりは捨てる、と。
芸術に大きな価値を認めながらも、ご自身を職人と位置づけ、この国に職人が生きていける場所を作りたいとも。
このMさんのたくさんのツイートに引き込まれ、時間を忘れて読んだ。
この出会いがきっかけとなり、味覚について考えた。
料理における妙味とは。
「真においしいときは心がほどける。しみじみする」
Mさんのこのツイートに心髄を見た気がする。
「心がほどける」のひと言は心に染みた。
素材がどうの、技術がどうのを超えた味わいを想像し、これまで体験した味覚的感動をあれこれ思い出してみた。
では、音楽の妙味とは。
音の余韻は、長い余韻短い余韻の別なく、次第に小さくなっていく。
余韻を味わっているとき、音が静まりゆくのに連れて心も静かになっていく。
ここに妙味の入口がある。
そして、音の余韻が消え入るまさにその瞬間、心もまた静まり返る(モデルケース=たとえ話です)。
それは、消え入る余韻に想念が連れ去られ、「無」の無限の広がりに吸い取られてしまったような感覚でもある。
この劇的変化の直後のしじま(静寂)を、つまり音の余韻の余韻を、ワタシは音楽の妙味と呼びたい。
つまり、楽譜の上では音符ではなく休符に妙味があるということになる。
ということは、およそ鑑賞に耐えうる音色であれば、妙味は存在するということになるのだろうか。
いや、それはちがう。
妙味は求めては得られないものだ。
なぜなら妙味を求めるとき、心は静かになれないからだ。
思いがけない美しい音色こそが、妙味を体験させるのだと思う。
では、料理の妙味はどうなのか。
ワタシは、きっと音楽と同じなのだろうと思っている。
(妙味と言うくらいだから、味覚の世界が妙味の本家にちがいないけれど)
味にも余韻がある。
味の余韻に心から浸るとき、「心がほどける」。
そしてその余韻が消え入るまさにその瞬間、心が別の次元に移ろう。
その直後に現われるしじま(静寂)。
これこそが料理の妙味では、と、Mさんの言葉もお借りして表現した次第。
で、マイ結論にもどる。
妙味とは、音や味の余韻が心の深くまで届き、心が静まったまさにそのときにある。
妙味にふれたとき、人は「生き返る」と言ってもいい。
すべての細胞が活性化し、リンパ系が活発になり免疫力が向上する。
…なんでいきなり即物的表現になるのか。
てことではあるが、妙味を取り出してお見せすることはできない。
「ここ、そこにある」としか言えなくてそれはごめんなさい。
鈴は二度鳴らすのが一般的だ。
で、ウチの場合、ふたつの鈴を一度ずつ鳴らす。
無作法やもしれないが、少し訳があるのだ。
ひとつの鈴は、母が亡くなって仏壇を作ったときに一緒にそろえたものだ。
高くてよく通る音がする。
もうひとつの鈴は、ワタシが子どもの頃から父方の祖父をまつった仏壇にあったものだ。
やや低く、落ち着いた澄んだ音色を持っている。
ワタシは祖母が鳴らすこの鈴の音を聴いて育った。
この鈴は、言わばワタシの原風景ならぬ原音風景のひとつ、巴だ家の音色だと言ってもいい。
そんなわけで、始めは母を、次いで父もまつることになった仏壇には、ふたつの鈴の音色が捧げられることとなった。
ふたつの鈴を続けて鳴らすと、「ワーン、ワーン、ワーン・・・」とうなりが生じる。
それぞれの鈴を打つ強さによって、うなりも変化する。
つまり、音色は毎日鳴らすたびに変化する。
このふたつの鈴の音色を余韻が消えるまで聴くことは、ワタシの日々のワークのひとつになっている。
演奏の基本「聴くこと」と音楽の原点「静寂」を確認することが主な目的だ。
で、今便のテーマ「妙味」について。
その前に、話変わって昨夜のこと。
ツイッターで、東京で割烹を営む人のツイートに出会った。
「真味」を目指し、嘘が無い料理を作るとある。
素材を大事にはするが、こだわりは捨てる、と。
芸術に大きな価値を認めながらも、ご自身を職人と位置づけ、この国に職人が生きていける場所を作りたいとも。
このMさんのたくさんのツイートに引き込まれ、時間を忘れて読んだ。
この出会いがきっかけとなり、味覚について考えた。
料理における妙味とは。
「真においしいときは心がほどける。しみじみする」
Mさんのこのツイートに心髄を見た気がする。
「心がほどける」のひと言は心に染みた。
素材がどうの、技術がどうのを超えた味わいを想像し、これまで体験した味覚的感動をあれこれ思い出してみた。
では、音楽の妙味とは。
音の余韻は、長い余韻短い余韻の別なく、次第に小さくなっていく。
余韻を味わっているとき、音が静まりゆくのに連れて心も静かになっていく。
ここに妙味の入口がある。
そして、音の余韻が消え入るまさにその瞬間、心もまた静まり返る(モデルケース=たとえ話です)。
それは、消え入る余韻に想念が連れ去られ、「無」の無限の広がりに吸い取られてしまったような感覚でもある。
この劇的変化の直後のしじま(静寂)を、つまり音の余韻の余韻を、ワタシは音楽の妙味と呼びたい。
つまり、楽譜の上では音符ではなく休符に妙味があるということになる。
ということは、およそ鑑賞に耐えうる音色であれば、妙味は存在するということになるのだろうか。
いや、それはちがう。
妙味は求めては得られないものだ。
なぜなら妙味を求めるとき、心は静かになれないからだ。
思いがけない美しい音色こそが、妙味を体験させるのだと思う。
では、料理の妙味はどうなのか。
ワタシは、きっと音楽と同じなのだろうと思っている。
(妙味と言うくらいだから、味覚の世界が妙味の本家にちがいないけれど)
味にも余韻がある。
味の余韻に心から浸るとき、「心がほどける」。
そしてその余韻が消え入るまさにその瞬間、心が別の次元に移ろう。
その直後に現われるしじま(静寂)。
これこそが料理の妙味では、と、Mさんの言葉もお借りして表現した次第。
で、マイ結論にもどる。
妙味とは、音や味の余韻が心の深くまで届き、心が静まったまさにそのときにある。
妙味にふれたとき、人は「生き返る」と言ってもいい。
すべての細胞が活性化し、リンパ系が活発になり免疫力が向上する。
…なんでいきなり即物的表現になるのか。
てことではあるが、妙味を取り出してお見せすることはできない。
「ここ、そこにある」としか言えなくてそれはごめんなさい。
おしまい。
12.08.20 記
12.08.20 記
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管理人について
HN:
巴だ リョウヘイ
性別:
非公開
職業:
揚琴・笛演奏屋 オカリナのセンセイ
趣味:
ほしい。
自己紹介:
演奏活動範囲/全国の都心から山間地まで。
演奏場所/ホールからお座敷まで。オカリナは野外歓迎。
演奏目的/オープニングセレモニーから追悼演奏まで。
演奏形態/独奏から異業種間共演まで。
所属事務所/Magnolia Music(自分的オフィス)
コンタクト方法/上記のホームページ(HP)の「FAQ & Form」のページからどうぞ。
特 技/晴れ男であること。
オカリナ倶楽部 “夢見るガチョウ” 主宰。
2018年、京都府下農村から大阪府下住宅街に移住。
今も雨乞い師見習い。
今も自然農見習い。
ノアのおとうちゃん。
演奏活動範囲/全国の都心から山間地まで。
演奏場所/ホールからお座敷まで。オカリナは野外歓迎。
演奏目的/オープニングセレモニーから追悼演奏まで。
演奏形態/独奏から異業種間共演まで。
所属事務所/Magnolia Music(自分的オフィス)
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