揚琴、オカリナ & インディアンフルート奏者がつづるいろいろばなし。
音楽、田舎暮らし、自然・環境、時事、ほかいろいろ。
どうぞ、ごゆっくり。
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#261 満月の夜にピアノが吠えた−5
時ならぬ暑さをどう乗り切るかは人それぞれだろうが、ワタシの場合はニンニクたっぷりの香り高きウコン色の料理を食べると元気になる。元気になると、鼻歌が出てくる。この鼻歌のメロディーは既製品である場合もあれば、口からでまかせ、良く言えば即興の歌であることもあるのだが、いずれにしても、それが必ずしもワタシの元気と自由の証ではなく、時として不自由さ加減を物語るものなのだと言えば、異議を唱えたくなる人もあるやもしれない。
時ならぬ暑さをどう乗り切るかは人それぞれだろうが、ワタシの場合はニンニクたっぷりの香り高きウコン色の料理を食べると元気になる。元気になると、鼻歌が出てくる。この鼻歌のメロディーは既製品である場合もあれば、口からでまかせ、良く言えば即興の歌であることもあるのだが、いずれにしても、それが必ずしもワタシの元気と自由の証ではなく、時として不自由さ加減を物語るものなのだと言えば、異議を唱えたくなる人もあるやもしれない。
規格化された音階で作られるメロディーには「政治性」がある。これはこのように弾かれなければならない、このように聴かれなければならない、といういわば強制力ないし押しつけこそがメロディーの持つ力の一部ではあるのだが、その力は人を規制するという意味において政治性だと言える。それを排したとき、そこに一種の精神的スペースが生まれる。そのスペースこそが、人に自由を保障するものではないだろうか。
借り物でない独自のリズムがあらわになったとき、その演奏は演奏者のエネルギー自体の姿、すなわち個性にもっとも近づいている。そしてそこに「歌」が現れた時に、人々は酔いしれ、突き動かされ、喝采する。ところが、その「歌」つまりメロディーは多かれ少なかれ政治性を持つものであるのだから、それが排されたときにこそ聴き手により大きな自由が保障されるはずだ。言い換えれば、演奏者個人の個性がもっとも発揮されるときにこそ、聴き手はより大きな自由を手にするという逆説が成り立つということだ。ところが聴衆は、より大きな自由よりも、「歌」という政治性を持つものをより好む。
これはふたつのことを示している。
ひとつは、キース・ジャレット(以下 K.J.) が繰り返し述べている「パーソナルになればなるほどユニバーサルになれる」という言葉の真意だ。ユニバーサルになるとは普遍性を持つということだが、自由というものが誰にもどこにも偏らないことだと定義できるのならば(そのはずだが)演奏者の個性の発揮こそが演奏者自身とわれわれ聴き手に自由を与えるということが、上の言葉の真意の一面ではないだろうか。
もうひとつは、われわれは不自由を好むということだ。不自由という言葉が適当でなければ、出来合いの自由と言い換えてもよい。誰かがわたしの代わりに自由を表現してくれるし用意してくれる、わたしはそれを楽しむだけで十分だし、それ以外に自由を手に入れるすべを知らない・・・これが「歌」を求める際の多くの人間のあり方ではなかろうか。
K.J. はかつて語った。
「芸術家の仕事は人前で自由を表現してみせることだ」
「芸術家は(自由を表現するために)自分をさらけ出さなければならない」
「僕は(自由を手にするために)戦っているんだ」
これらの言葉が、この夜ことのほか重く響いた。
借り物でない独自のリズムがあらわになったとき、その演奏は演奏者のエネルギー自体の姿、すなわち個性にもっとも近づいている。そしてそこに「歌」が現れた時に、人々は酔いしれ、突き動かされ、喝采する。ところが、その「歌」つまりメロディーは多かれ少なかれ政治性を持つものであるのだから、それが排されたときにこそ聴き手により大きな自由が保障されるはずだ。言い換えれば、演奏者個人の個性がもっとも発揮されるときにこそ、聴き手はより大きな自由を手にするという逆説が成り立つということだ。ところが聴衆は、より大きな自由よりも、「歌」という政治性を持つものをより好む。
これはふたつのことを示している。
ひとつは、キース・ジャレット(以下 K.J.) が繰り返し述べている「パーソナルになればなるほどユニバーサルになれる」という言葉の真意だ。ユニバーサルになるとは普遍性を持つということだが、自由というものが誰にもどこにも偏らないことだと定義できるのならば(そのはずだが)演奏者の個性の発揮こそが演奏者自身とわれわれ聴き手に自由を与えるということが、上の言葉の真意の一面ではないだろうか。
もうひとつは、われわれは不自由を好むということだ。不自由という言葉が適当でなければ、出来合いの自由と言い換えてもよい。誰かがわたしの代わりに自由を表現してくれるし用意してくれる、わたしはそれを楽しむだけで十分だし、それ以外に自由を手に入れるすべを知らない・・・これが「歌」を求める際の多くの人間のあり方ではなかろうか。
K.J. はかつて語った。
「芸術家の仕事は人前で自由を表現してみせることだ」
「芸術家は(自由を表現するために)自分をさらけ出さなければならない」
「僕は(自由を手にするために)戦っているんだ」
これらの言葉が、この夜ことのほか重く響いた。
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管理人について
HN:
巴だ リョウヘイ
性別:
非公開
職業:
揚琴・笛演奏屋 オカリナのセンセイ
趣味:
ほしい。
自己紹介:
演奏活動範囲/全国の都心から山間地まで。
演奏場所/ホールからお座敷まで。オカリナは野外歓迎。
演奏目的/オープニングセレモニーから追悼演奏まで。
演奏形態/独奏から異業種間共演まで。
所属事務所/Magnolia Music(自分的オフィス)
コンタクト方法/上記のホームページ(HP)の「FAQ & Form」のページからどうぞ。
特 技/晴れ男であること。
オカリナ倶楽部 “夢見るガチョウ” 主宰。
2018年、京都府下農村から大阪府下住宅街に移住。
今も雨乞い師見習い。
今も自然農見習い。
ノアのおとうちゃん。
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