揚琴、オカリナ & インディアンフルート奏者がつづるいろいろばなし。
音楽、田舎暮らし、自然・環境、時事、ほかいろいろ。
どうぞ、ごゆっくり。
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#66で「現代人は、予定にしたがって生きている。予定をこなすことが生きることだと言ってもいい」と書いた。現代人とはまことにお疲れさまなものだ。
さて、現代人は常に何かを選択して生きている。選択することが生きることだと言ってもいい。選択することができなくなれば、現代人はたちどころに立ち往生してしまうかもしれない。まことにご苦労さまな現代人。
選択するには、選択肢があることと、選択の自由が保障されていることが前提になる。現代では、職業からテレビのチャンネルまで選択の自由は基本的人権として保障されている一方で、実際には選択の余地がない場合もある。テレビのチャンネルも家庭内ヒエラルキーによって選択がゆるされない場合がある。とまれ、商品や情報について言えば、こんなに多くの選択肢が必要なのだろうかと疑問に思うこともよくある。
さて、現代人は常に何かを選択して生きている。選択することが生きることだと言ってもいい。選択することができなくなれば、現代人はたちどころに立ち往生してしまうかもしれない。まことにご苦労さまな現代人。
選択するには、選択肢があることと、選択の自由が保障されていることが前提になる。現代では、職業からテレビのチャンネルまで選択の自由は基本的人権として保障されている一方で、実際には選択の余地がない場合もある。テレビのチャンネルも家庭内ヒエラルキーによって選択がゆるされない場合がある。とまれ、商品や情報について言えば、こんなに多くの選択肢が必要なのだろうかと疑問に思うこともよくある。
書店へ行けば、一生かかっても読み切れない量の本が所せましと並べられている。近頃ではその数に圧倒されてしまって、ぶらぶらと背表紙を眺めて回って未知の本との出会いを楽しもうという気持ちになかなかなれない。もっぱら目的の本があるであろう棚を目指して、用がすめばハイ、サヨナラとなる。
ネットで何かを検索しても、語によってはどえらい数のサイトが表示され、そのどこかにあるかもしれないし、ないかもしれない自分が求める情報を探そうという気力が萎えてしまうこともしばしばだ。
世の中にあふれる膨大な量の商品は、消費者の選択という行為によって支えられている。商売人は選択肢をふやすことで購買意欲をかき立てる。とどまることのない選択肢の増殖を目の当たりにして、消費者は慢性的不足感にさいなまれるようになる。であれば、われわれの選択行為の大半は、慢性的不足感に由来するものなのかもしれない。
何かを選択するとき、人はもちろん自分の意志で選択している。が、それは多くの場合は選択ではなく必然であるのではなかろうか。たまたま選択肢があったから選択したような気がするが、初めから答が決まっていることも多いのではないだろうか。
人はそれぞれ固有の周波数を持っているという。そして自分の周波数と同調する人や物を選ぶのだという。これが「縁」という考え方だ。
縁とは必然的出会いのことだ。人と人との出会いは縁だと言われる。言い換えれば、出会いは必然だということになる。同じように、人と物との出会いも縁なのだとすれば、その出会いもまた必然だということになる。もちろん選択を過ることもあるだろうが。
出会いが必然なのであれば、人が行なう選択の意味はなんなのだろう。選択の自由とはなんなのだろう。数多い選択肢はただ過った選択の機会とさまざまな浪費をふやしているだけかもしれないのではないだろうか。
田舎は都会に比べて人も物も情報もたいへん少ないことは何度強調しても足りない。田舎は選択の自由がないと言って嘆く田舎人も多い。が、すべての出会いが縁だと考えれば、人・物・情報が圧倒的に多い都会人がことさら恵まれているというようには思えないのだが。
言うまでもなく、田舎でしか得られない縁がある。何処にいても、選択の自由という夢想からの自由をこそ手にしたい。
選択の自由がもっとも制限されている世界はどこか。それはおそらく、刑務所と戦場だろう。
ネットで何かを検索しても、語によってはどえらい数のサイトが表示され、そのどこかにあるかもしれないし、ないかもしれない自分が求める情報を探そうという気力が萎えてしまうこともしばしばだ。
世の中にあふれる膨大な量の商品は、消費者の選択という行為によって支えられている。商売人は選択肢をふやすことで購買意欲をかき立てる。とどまることのない選択肢の増殖を目の当たりにして、消費者は慢性的不足感にさいなまれるようになる。であれば、われわれの選択行為の大半は、慢性的不足感に由来するものなのかもしれない。
何かを選択するとき、人はもちろん自分の意志で選択している。が、それは多くの場合は選択ではなく必然であるのではなかろうか。たまたま選択肢があったから選択したような気がするが、初めから答が決まっていることも多いのではないだろうか。
人はそれぞれ固有の周波数を持っているという。そして自分の周波数と同調する人や物を選ぶのだという。これが「縁」という考え方だ。
縁とは必然的出会いのことだ。人と人との出会いは縁だと言われる。言い換えれば、出会いは必然だということになる。同じように、人と物との出会いも縁なのだとすれば、その出会いもまた必然だということになる。もちろん選択を過ることもあるだろうが。
出会いが必然なのであれば、人が行なう選択の意味はなんなのだろう。選択の自由とはなんなのだろう。数多い選択肢はただ過った選択の機会とさまざまな浪費をふやしているだけかもしれないのではないだろうか。
田舎は都会に比べて人も物も情報もたいへん少ないことは何度強調しても足りない。田舎は選択の自由がないと言って嘆く田舎人も多い。が、すべての出会いが縁だと考えれば、人・物・情報が圧倒的に多い都会人がことさら恵まれているというようには思えないのだが。
言うまでもなく、田舎でしか得られない縁がある。何処にいても、選択の自由という夢想からの自由をこそ手にしたい。
選択の自由がもっとも制限されている世界はどこか。それはおそらく、刑務所と戦場だろう。
おしまい。
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管理人について
HN:
巴だ リョウヘイ
性別:
非公開
職業:
揚琴・笛演奏屋 オカリナのセンセイ
趣味:
ほしい。
自己紹介:
演奏活動範囲/全国の都心から山間地まで。
演奏場所/ホールからお座敷まで。オカリナは野外歓迎。
演奏目的/オープニングセレモニーから追悼演奏まで。
演奏形態/独奏から異業種間共演まで。
所属事務所/Magnolia Music(自分的オフィス)
コンタクト方法/上記のホームページ(HP)の「FAQ & Form」のページからどうぞ。
特 技/晴れ男であること。
オカリナ倶楽部 “夢見るガチョウ” 主宰。
2018年、京都府下農村から大阪府下住宅街に移住。
今も雨乞い師見習い。
今も自然農見習い。
ノアのおとうちゃん。
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