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揚琴、オカリナ & インディアンフルート奏者がつづるいろいろばなし。
音楽、田舎暮らし、自然・環境、時事、ほかいろいろ。
どうぞ、ごゆっくり。
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 ワタシのアマチュア時代の音楽仲間の中には、うれしいことに今も音楽で飯を食っている人が何人もいる。先生だったり技術者だったり演奏家だったり作曲家だったりいろいろだが、個性的な子供時代を送った人が多かったようだ。
 そんなことを思い出す出来事があった。

かつてはどこの小学校にもあった二宮金次郎さんの石像
ninomiya.jpg

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 先日、地元の小学校と地域住民の合同芸能発表会を鑑賞した。プログラムは、全児童の、といっても全校児童40人そこそこなのだが、低中高学年別に分かれての音楽と群読の発表、地域の童謡愛好会の合唱、地域のキリスト教神学校の合唱グループのボランティア出演などであった。
 子供たちの発表には、自分の子供の頃の記憶をだぶらせて鑑賞してしまった。あのときと同じように、大きな声で一所懸命に歌っている子もいれば、恥ずかしそうに小さな声で歌う子もいるし、終始ふにゃふにゃしている子、横の子の様子を伺いながら着いて行くのが精一杯の子もいる。
 そうした舞台の様子は、一見ワタシの小学生時代と何も変わらないように見えた。が、何かが大きく変わってしまったために、童心に還っていっしょに楽しむという心境にはついぞなれなかった。

 変わったのは、当たり前だが、ワタシの方だった。あんなに一所懸命に取組む子だった自分が、今はたいへん冷めた目で舞台を見ている。子供たちの姿を通して、学校というもののあり方を見ている。

 この発表の機会を通して学校が子供たちに教え込んでいるものの第一が何であるか、はっきり見てとれた。
 舞台への出方、礼、姿勢、進行のきっかけなどの形式的行為を行なうとき、舞台には題材の表現の瞬間よりも大きな緊張感が走った。そして歌い方も読み方も、第一に要求されることは大きな声を出すこと。抑揚はまったくないか取って付けたようなものばかりである。内容の理解から生まれる自然な表現というものは、ほとんど見られない。一見心をこめて声を出しているこどもであっても、彼ら彼女らの多くは内容に感動してそうしているのではなく、自分の行為に没入しているにすぎなかった。
 そこに現われていたものの大部分は、表現の喜びというものではなく、「規律」であった。

 整然たる形式は集団的表現の成功の第一の要因だろうか。表現者が題材に高い関心を持ち、理解し、その結果としての心からの表現が生まれるように導くことと、どちらが優先されるべきだろうか。(※ もちろんここで言う形式とは、内容に伴っている形式のことではなく、いわゆる見た目の形式のことです)

 さて、ワタシの若き頃のユニークな音楽仲間たちの幼少の頃の話。
 管楽器奏者のF氏のエピソードはすばらしい!? 幼稚園での劇の発表にどうしてもなじめず、つまりどの役もこなせず、仕方なく彼のために新しい役が作られた。それは、劇が始まってから終わるまでずっと舞台の端に立って、「天下泰平」と書かれた大きな旗を振りつづけるというものだったそうだ。この役は、もちろん劇のストーリーとはなんの関係もない。

 人の成長の過程でもっとも大切なことは、自分を知ることであろう。自分を知ることから自分を磨くことが始まる。また、自分を磨こうとする過程で自分を知ってゆく。しかるのちに、自分を、すなわち個性を生かすという道が開ける。
 しかし、子供の場合は周囲の大人が個性を見い出してやり、その個性を伸ばす方向へとある程度は導いてやる必要があるだろう。
 F氏にこのような役を与えた先生のやり方がそうであったかどうかといえば、彼の超俗的現在を知るワタシは、大いに納得させられるものである。とともに、この先生の卓越した洞察力とアイデアとユーモアに感服している。そしてF氏はもちろん、このエピソードを笑いながら語ってくれた。

 とはいうものの、自分の既成概念や社会通念を横に置いておき、その子のあるがままの姿をみつめ、個性を見い出すことは容易ではないように思う。その子の個性を生かすには、その子の個性がどのようなものであれ、否定せずに受け入れることが前提になる。社会のしがらみの中で生きる大人にとってはこれはむずかしいことだ。その無数のしがらみに適応する能力を身につけさせることこそがその子の幸せにつながると考えるだけであれば、個性の発掘と評価などはいかほども望めないだろう。かといって、この社会が個性を伸ばすだけでは生きていけない場所であることも事実だ。
 であれば、個性と協調性のバランスの取り方を身につけさせることが、教育の本来の目的のひとつとして位置付けられてほしいものだ。互いの個性の尊重こそが人の世をおだやかなものにする前提だと考えるワタシはそう願う。で、そのためには、現代日本の集団主義形式主義に重心が置かれた教育を、思いきって個性重視の教育にシフトする必要がある。そしてそうするには、まず大人が現代社会の問題点に真正に向き合い、自身の考えと態度を改めるしかない。
 何が社会の諸問題を拡大再生産しているのだろう。利己主義だろうか。核家族化だろうか。資本主義だろうか。隠された前近代性だろうか。過去の未精算だろうか。

 いずれにしても、大人が自身の態度を改革すべきという点に、教育改革(と言っていいのかどうかわからないが)の最大の困難があるのかもしれない。なぜならば、大人は、思想であっても行動様式であっても、年を取れば取るほど自ら変えることがむずかしくなり、しかもその年を取った大人が中心になって教育を論じている現状があるからだ。
 では、教育にたずさわる人にいちばん求められるものはなんだろう。知識だろうか。経験だろうか。あるいは、子供のままの心だろうか。

 おしまい。



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管理人について

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巴だ リョウヘイ
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揚琴・笛演奏屋 オカリナのセンセイ
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自己紹介:
 
演奏活動範囲/全国の都心から山間地まで。
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演奏目的/オープニングセレモニーから追悼演奏まで。
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所属事務所/Magnolia Music(自分的オフィス)

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特 技/晴れ男であること。

オカリナ倶楽部 “夢見るガチョウ” 主宰。

2018年、京都府下農村から大阪府下住宅街に移住。
今も雨乞い師見習い。
今も自然農見習い。
ノアのおとうちゃん。
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