揚琴、オカリナ & インディアンフルート奏者がつづるいろいろばなし。
音楽、田舎暮らし、自然・環境、時事、ほかいろいろ。
どうぞ、ごゆっくり。
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前便で、兵法の修得の道は、オカリナなどの楽器の演奏の修得の道に通じる、と書いた。今便ではそのあたりのことを。
五輪書に書きつづられた兵法の修得の道の根底に流れるものは、どうやら「平常心」というもののようだ。戦いの場においていつもと変わらぬ心でいることが平常心だと誤解されやすいが、五輪書が言う平常心はそうではない。逆に日常においても戦いの場での心境を保ち続け、日常と戦いの場での心境を限りなく近づけてゆくことで得られる心境なのだ。このようにしていくことで、常に穏やかで何ものにも乱されない心境へと到れるという。
本番の演奏で緊張のあまり練習の成果を発揮できないと感じる人は多い。よく言われるように「場慣れ」するということ。これは、単に非常時の心境を平常時の緊張感も集中力もない心境に近付けるという意味であり、五輪書の教えにしたがえば誤りだと言える。ワタシもまったく同感で、緊張感のまったくない演奏は人の心に届かない。
五輪書に書きつづられた兵法の修得の道の根底に流れるものは、どうやら「平常心」というもののようだ。戦いの場においていつもと変わらぬ心でいることが平常心だと誤解されやすいが、五輪書が言う平常心はそうではない。逆に日常においても戦いの場での心境を保ち続け、日常と戦いの場での心境を限りなく近づけてゆくことで得られる心境なのだ。このようにしていくことで、常に穏やかで何ものにも乱されない心境へと到れるという。
本番の演奏で緊張のあまり練習の成果を発揮できないと感じる人は多い。よく言われるように「場慣れ」するということ。これは、単に非常時の心境を平常時の緊張感も集中力もない心境に近付けるという意味であり、五輪書の教えにしたがえば誤りだと言える。ワタシもまったく同感で、緊張感のまったくない演奏は人の心に届かない。
といって、アマチュアは日常生活の中で常に本番同様の精神状態でいられるわけもない。いやさ、プロでもほとんど無理だわな。だから、せめて練習のときには、ときどきでいいから、本番さながらの緊張感と集中力を持って取組むことが必要なのではなかろうか。それが、必ず本番に生きるとワタシは思う。
さて、五輪書で語られる武蔵の流儀は「二天一流」と名付けられている。これは、武蔵が極めた二刀流から発している言葉だ。その実際面での基本は「左右の手を同じように扱えるようになること」なのだ。
ほとんどの楽器は両手を駆使して演奏する。中でも、両手にバチを持って演奏する楽器は、それこそ二刀流そのものだと言える。
ワタシの場合、揚琴が自分の楽器だが、演奏を身につける上でもっとも苦労したのが、この左右のバチを同じように扱うことなのだ。
サントゥール(揚琴の原型。ペルシャ、インドに今も伝わる)の巨匠シヴクマール・シャルマは、その数少ない言説から察するに、始めから右手の優位性を前提に技術を磨くのが正統な練習法だと考えておられるようだ。これは、インドという風土に根ざしたヒンドゥー教の習慣に発する考えではないかと思う。インドでは、左手を不浄の手として、食事や握手には一切使わない。これは単に宗教観やもちろん迷信などというものではなく、人間の身体の構造についてのインド人の洞察に由来する習慣ではないかと思う。
人間の身体は左右対称にはできていない。心臓は左側にあるし、胃腸の向きも対称形ではない。目にも利き目というものがあれば、脳も右脳と左脳それぞれの働きは異なる。動物的本能にしたがえば、左手はとっさに心臓をガードするという役割があるだろう。だから、左右の手を同じように扱うことにそもそも論理的にも物理的にも無理があるという見方は正しいと思われる。その考えがインド人の習慣につながっていることは、多分疑いを入れないだろう。日本人だってそうだ。お箸は右手、茶わんは左手。
であれば、武蔵の説く「二天一流」はそもそも無理がある思想なのだろうか。
武蔵の主張はこうだ。武士は必ず二本の刀を帯びている。その両方を、つまり持っている武器のすべてを使わずして戦うこと、引いては敗北することは不合理である。そして人間は二本の腕を独立して使うことができる。刀というものは既成概念にとらわれず、片手で振れるように訓練すればできるようになる、と言うのだ。
このように、「二天一流」の実践面の根底には、徹底した合理主義が流れている。武士が二本の刀を帯びることは形式的な習慣であるばかりではなく、たびたび実際に脇差し(小刀)も使用されるのであるが、それはあくまでも補助的に、または非常手段として用いられる。武蔵はそれらをあえて身体能力上の不利を無視してまで同時に活用しようとする。この点が合理的であるが特殊な発想であると言える。
武蔵の、人間の身体の構造を前提にするのではなく、古来の形式と方法論に新たな意味付けをして活用するという態度には、独創性と卓越した研究心が表われている言える。
ここから学ぶべき初めの点として、既成概念にとらわれないということがあげられる。確かに重たい大刀を右手一本で振り正確に打ち込むことはむずかしい。しかし、武蔵はさらに言う。必要以上に速く振ろうとするから振れないのであって、その重みや身体の動きや周囲(敵)の状況に逆らわず、最小限の力で適確に振れば、刀を片手で自在に操ることができる、と。
ここでは、武蔵の合理主義はあたかも自然主義のような様相を呈して現われる。「自然の流れに逆らわない」という言い方は、ともすれば感覚的に捉えられ勝ちだ。しかし、無駄な力を抜き、最小限の力で振るというあり方は、合理主義の際たるものであると思う。
ここで忘れてはならないことは、このような動作を行なう前提には、平常心があるということだ。心が乱されていては刀は振れない。つまり、速く振ろう、思い通りに振ろうとする「欲」が身体に無駄な力を込めさせ、身体を固くさせ、無駄な動きを伴う遅い動作を生んでしまうのだ。つまり無駄な力を抜くという場合、「心身の(「心」が大事)」無駄な力を抜くというように解釈されなければならない。
思い通りに振ろうという気持ちは「欲」である。が、思い通りに振ろうという気持ちがなければ当然刀は振れない。ここにパラドックスが生じる。しかし、ここで言葉に惑わされてはならない。「思い通り」という言葉は、その目的が何であるかという見地から検討されなければならないのだ。
武蔵は言う。刀を持って敵に対峙したときは、刀で相手の刀を受けよう、あるいは型通りに振ろうなどとは一切考えず、ただただ相手を斬ることだけに専心すべしと。つまり、刀を持つ、振る目的を敵を斬るというその一点に集中させなければならないということだ。
刀は武器であるのだからこれは当然のことのように思えるが、道場稽古ばかりしている者がいざ真剣勝負の場に遭遇したときに、えてして型にはまった技や既成概念にとらわれてしまうことに対する戒めも含んだ言説であると考えられる。
であるから、「思い通りに」という言葉は、型通りの方向に、自分に可能な最速の速さでという皮相な事柄を示しているのではなく、敵を斬るという実際的な、目的合理的な意味のみに解釈されなければならない。言い換えれば、たとえ一見遅い動きであっても、敵に適確に入り、一撃で息の根を止める動作であれば、いや、そうした動作こそが求められるべきであるということになる。ぜい肉を落とし切った、きわめて目的合理的な思想であると言える。
バチを持つ目的は、美しい音を鳴り響かせることだ。音符をなぞることではない。たとえ音符を正確になぞったとしても、それが美しく生きた音でなければ、人の心には届かない。つまり、演奏の最大にして唯一の目的は、聴く人の心に音を、感情を届けることなのだ。その見地から選曲され、二本のバチが振られなければならない、と武蔵先生は言う。
ここまでは、第一章の「地の巻」と、第二章であり全巻の核心部分である「水の巻」に詳しい。
さて、五輪書で語られる武蔵の流儀は「二天一流」と名付けられている。これは、武蔵が極めた二刀流から発している言葉だ。その実際面での基本は「左右の手を同じように扱えるようになること」なのだ。
ほとんどの楽器は両手を駆使して演奏する。中でも、両手にバチを持って演奏する楽器は、それこそ二刀流そのものだと言える。
ワタシの場合、揚琴が自分の楽器だが、演奏を身につける上でもっとも苦労したのが、この左右のバチを同じように扱うことなのだ。
サントゥール(揚琴の原型。ペルシャ、インドに今も伝わる)の巨匠シヴクマール・シャルマは、その数少ない言説から察するに、始めから右手の優位性を前提に技術を磨くのが正統な練習法だと考えておられるようだ。これは、インドという風土に根ざしたヒンドゥー教の習慣に発する考えではないかと思う。インドでは、左手を不浄の手として、食事や握手には一切使わない。これは単に宗教観やもちろん迷信などというものではなく、人間の身体の構造についてのインド人の洞察に由来する習慣ではないかと思う。
人間の身体は左右対称にはできていない。心臓は左側にあるし、胃腸の向きも対称形ではない。目にも利き目というものがあれば、脳も右脳と左脳それぞれの働きは異なる。動物的本能にしたがえば、左手はとっさに心臓をガードするという役割があるだろう。だから、左右の手を同じように扱うことにそもそも論理的にも物理的にも無理があるという見方は正しいと思われる。その考えがインド人の習慣につながっていることは、多分疑いを入れないだろう。日本人だってそうだ。お箸は右手、茶わんは左手。
であれば、武蔵の説く「二天一流」はそもそも無理がある思想なのだろうか。
武蔵の主張はこうだ。武士は必ず二本の刀を帯びている。その両方を、つまり持っている武器のすべてを使わずして戦うこと、引いては敗北することは不合理である。そして人間は二本の腕を独立して使うことができる。刀というものは既成概念にとらわれず、片手で振れるように訓練すればできるようになる、と言うのだ。
このように、「二天一流」の実践面の根底には、徹底した合理主義が流れている。武士が二本の刀を帯びることは形式的な習慣であるばかりではなく、たびたび実際に脇差し(小刀)も使用されるのであるが、それはあくまでも補助的に、または非常手段として用いられる。武蔵はそれらをあえて身体能力上の不利を無視してまで同時に活用しようとする。この点が合理的であるが特殊な発想であると言える。
武蔵の、人間の身体の構造を前提にするのではなく、古来の形式と方法論に新たな意味付けをして活用するという態度には、独創性と卓越した研究心が表われている言える。
ここから学ぶべき初めの点として、既成概念にとらわれないということがあげられる。確かに重たい大刀を右手一本で振り正確に打ち込むことはむずかしい。しかし、武蔵はさらに言う。必要以上に速く振ろうとするから振れないのであって、その重みや身体の動きや周囲(敵)の状況に逆らわず、最小限の力で適確に振れば、刀を片手で自在に操ることができる、と。
ここでは、武蔵の合理主義はあたかも自然主義のような様相を呈して現われる。「自然の流れに逆らわない」という言い方は、ともすれば感覚的に捉えられ勝ちだ。しかし、無駄な力を抜き、最小限の力で振るというあり方は、合理主義の際たるものであると思う。
ここで忘れてはならないことは、このような動作を行なう前提には、平常心があるということだ。心が乱されていては刀は振れない。つまり、速く振ろう、思い通りに振ろうとする「欲」が身体に無駄な力を込めさせ、身体を固くさせ、無駄な動きを伴う遅い動作を生んでしまうのだ。つまり無駄な力を抜くという場合、「心身の(「心」が大事)」無駄な力を抜くというように解釈されなければならない。
思い通りに振ろうという気持ちは「欲」である。が、思い通りに振ろうという気持ちがなければ当然刀は振れない。ここにパラドックスが生じる。しかし、ここで言葉に惑わされてはならない。「思い通り」という言葉は、その目的が何であるかという見地から検討されなければならないのだ。
武蔵は言う。刀を持って敵に対峙したときは、刀で相手の刀を受けよう、あるいは型通りに振ろうなどとは一切考えず、ただただ相手を斬ることだけに専心すべしと。つまり、刀を持つ、振る目的を敵を斬るというその一点に集中させなければならないということだ。
刀は武器であるのだからこれは当然のことのように思えるが、道場稽古ばかりしている者がいざ真剣勝負の場に遭遇したときに、えてして型にはまった技や既成概念にとらわれてしまうことに対する戒めも含んだ言説であると考えられる。
であるから、「思い通りに」という言葉は、型通りの方向に、自分に可能な最速の速さでという皮相な事柄を示しているのではなく、敵を斬るという実際的な、目的合理的な意味のみに解釈されなければならない。言い換えれば、たとえ一見遅い動きであっても、敵に適確に入り、一撃で息の根を止める動作であれば、いや、そうした動作こそが求められるべきであるということになる。ぜい肉を落とし切った、きわめて目的合理的な思想であると言える。
バチを持つ目的は、美しい音を鳴り響かせることだ。音符をなぞることではない。たとえ音符を正確になぞったとしても、それが美しく生きた音でなければ、人の心には届かない。つまり、演奏の最大にして唯一の目的は、聴く人の心に音を、感情を届けることなのだ。その見地から選曲され、二本のバチが振られなければならない、と武蔵先生は言う。
ここまでは、第一章の「地の巻」と、第二章であり全巻の核心部分である「水の巻」に詳しい。
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管理人について
HN:
巴だ リョウヘイ
性別:
非公開
職業:
揚琴・笛演奏屋 オカリナのセンセイ
趣味:
ほしい。
自己紹介:
演奏活動範囲/全国の都心から山間地まで。
演奏場所/ホールからお座敷まで。オカリナは野外歓迎。
演奏目的/オープニングセレモニーから追悼演奏まで。
演奏形態/独奏から異業種間共演まで。
所属事務所/Magnolia Music(自分的オフィス)
コンタクト方法/上記のホームページ(HP)の「FAQ & Form」のページからどうぞ。
特 技/晴れ男であること。
オカリナ倶楽部 “夢見るガチョウ” 主宰。
2018年、京都府下農村から大阪府下住宅街に移住。
今も雨乞い師見習い。
今も自然農見習い。
ノアのおとうちゃん。
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演奏目的/オープニングセレモニーから追悼演奏まで。
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