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揚琴、オカリナ & インディアンフルート奏者がつづるいろいろばなし。
音楽、田舎暮らし、自然・環境、時事、ほかいろいろ。
どうぞ、ごゆっくり。
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田口ランディ様

お目に止まるかどうかわかりませんが、これが最後の便です。
エントリの削除は筆者の他者に対する拒絶の意思表示であることはわかります。
ですが、私自身のけじめとして、お届けする予定であった文章の内容を、かいつまんでここにアップさせていただきます。

拍手[3回]


ランディさんは、私に件のツイートを発するに至った「思慮」を示すよう求められました。
以下、前便で少しふれました「一部の人のあり方をさも全体のあり方であるかのように見なして考え、発言する」という手法をランディさんが用いておられると考えられる箇所を指摘させていただくことで、それらが私に懐疑心を抱かせ、「沈黙」という言葉の真意を読み誤った、という経緯をお伝えできればと思います。

むろん、誤解の全責任は読者にありますので、この経緯をお伝えすることは、誤解の弁明としてではありません。
あくまでランディさんに提供していただいた、私の「思慮」の跡をお伝えする機会に応えたものとして受け止めていただきますように。


「一部の人のあり方をさも全体のあり方であるかのように見なして考え、発言する」という手法、一つ目。

>脱原発のデモの行く人に対して、デモに行かないというスタンスをとる人は、デモに行くという行為と対立しているのではなく、デモに行くという行為によって削ぎ取られるある部分を補完している……と考えるのです。(中略)善悪をはっきりさせて態度を表明することに違和を感じ(後略)(「状況のなかの沈黙について」より)

私は、家族や友人たちと、直接、あるいは twitter などで、日常的に原発、原子力について話し合っています。
そして私たちが見いだした現時点での答は、「一人一人が自分の問題として考えなければならない」「正しい情報を得なくてはならない」「われわれみんなに責任があるこの問題において、人と人との対立・敵対は不毛である」「対話が為されなければならない」というものです。
友人の中にはデモに参加した人もいます。
ですから、デモに行く人の中にも、人と人との善悪の二項対立に疑問を抱いている人はきっと多いと思いますよ。
問題はデモに行くか行かないかではないと思うのです。

それをランディさんは、デモ参加者の中の一部に過ぎないであろう(数の問題ではありません、念のため)「善悪をはっきりさせて態度を表明する」人がデモ参加者のすべてであるかのように書き進めておられます。
これが、私が言う「一部の人のあり方をさも全体のあり方であるかのように見なして考え、発言する」という手法です。

(しかも、ここで問題にしておられる「善悪」は、原発という存在についての善悪の判断と、原発について態度表明する個々の人に対する善人悪人の規定の区別が、明確でないように感じます)―→(別の段落で「私は『原子力』というものがエネルギーとして使用されることに兵器であろうと発電であろうと全く賛同しません」とはっきり述べておられるのですから、原発の善悪についてではなく人の善悪についてのことであるはずですが —— 原発の賛否をブログで述べるのは良いがデモではダメだとお考えのはずはないでしょうし —— 、「『原発に賛成か反対か?』という議論になると、その問いの立て方に対して、少しだけ納得がいかなくなります」以下では原発に対する賛否のあり方について述べておられるので、区別が明確でないと感じた次第です)


二つ目。

>「原発がなくてもがまんする」ことの正当な理由として「放射線による生命の危険」「自然破壊」などがあげられがちです。誰しも放射能は恐ろしいので、この理由は絶大な説得力をもっています。にもかかわらず「原発がないと困る」人たちを説得できないのは、議論が「がまんできるか、できないか」という次元にあり、生命はその理由づけとして使われているだけで、生命そのものが問題の対象とされていないからだと思うのです。(同)

「放射線による生命の危険」「自然破壊」を理由に原発反対を訴える人が、すべて不自由をがまんすることを前提にしているかのようですが、それはどうでしょうか。

原発を停めても不自由をがまんすることにはならないと考えている人もいます。
だって、原発を停めても電気は足りているのですから。
それに、【電気が足りていようがいまいが原子力はダメ】という人もたくさんいます(私もそうです)。
そういう人たちが「放射線による生命の危険」「自然破壊」を理由に原発反対を訴えることは間違いでしょうか。

>生命はその理由づけとして使われているだけで、生命そのものが問題の対象とされていないからだと思うのです。(同)

「放射線による生命の危険」「自然破壊」を理由に原発反対を訴える人は「がまんできるか、できないか」の方が生命よりも大事だと考えているということでしょうか。
言い換えれば、生命を理由付けとして原発に反対する人は、生命の大切さを実感することなく、生命という言葉だけを表面的に用いている、ということでしょうか。
であれば、確かに誰をも説得、または感化することは叶わないでしょうね。

で、私はまずここで、ランティさんがご自身を「超越的な位置」に置いておられるのではないかという漠とした感覚を抱いたのです。
自分は生命の大切さを実感している、しかし他の多くの人はそうではない、という位置に、です。

山口県上関町の美しい瀬戸内の海に浮かぶ祝島(いわいしま)のことはご存知かと思います。
祝島の大半の人々は、誰もが「命がけ」で海を守ると言い、原発建設を阻止するために、三十年に渡って行動し続けておられます。
(つい昨日、上関町の町長選で上関原発建設推進派の現職町長が当選したとの一報が入りましたが)
私なりに整理した祝島の人々が言う「命がけ」の意味は、こうです。
「自分たちは海に生かされている。したがって海は自分たちの命である。したがって、原発によって海が死ぬことは自分たちが死ぬことであり、海を守ることは自分たちの命を守ることである。したがって、原発との戦いは命がけである」
現状と歴史的事実と信仰に基づいており、きわめて理路整然としています。
このように、祝島の人々の活動においては「生命はその理由づけとして使われているだけ」であるとは、けっして言えないと思います。

次は、私のツイートの引用です。

>「突然やってきて『ここへ原発を建てる』と言う人に対しても沈黙せよと?」

祝島と上関原発のことが頭にありました。
中国電力に対して沈黙して、十億円の漁業補償金を受け取って原発建設を認める事は、ほとんどの祝島島民にとっては自殺行為なのです。(祝島の人々は十億円の受け取りを拒否しました)
では、住民の数の上でも議会でも少数派で、しかも離島という特殊条件の下で、三十年間に渡り、団結し、叫び、座り込みをし、デモをする以外に、いったいどうすればよかったのでしょう!!
対話?
対話は、中電と行政と推進派住民が命がけであれば、成り立ったかもしれません。
そもそもあの地域に二項対立を作り出したのは、中電と国の方です。
地元住民を金の力で分断して対立を作り出し、金と数で反対派を押さえ込む。
それが彼らの常套手段なのです。

ですので、「生命はその理由づけとして使われているだけ」という件も、「一部の人のあり方をさも全体のあり方であるかのように見なして考え、発言する」という手法だと感じたところです。


以上、ランディさんが文中でこのように用いられた「一部の人のあり方をさも全体のあり方であるかのように見なして考え、発言する」という手法は、既存の対立に対してさらなる対立を生み出してしまう、またはある対立を別の対立にすり替えるための手法です。
それがために、私は「沈黙」という言葉を対立に対する新たな対立であるかのような誤った解釈につなげてしまったと、今考えています。
このことを、私の常々の考え方に沿って縷々述べさせていただきました。

なお、「状況のなかの沈黙について」にはもちろん同意できる箇所も多くあったことを申し添えさせていただきます。
それらもぜひご紹介したかったのですが、このやり取りの主旨に伴う優先順位を考え、割愛させていただきます。

さて、ここまでほとんどが「状況のなかの沈黙について」に対する私の私見となり、「巴だリョウヘイさんへ…」に対しては十分にお答えできていないやもしれません。
が、ランディさんのご主張とスタンスについての私の考えのアウトラインは、きっとご理解いただけることと思っております。
さらなる誤解・誤読もあるに違いありません。
が、どうか素人の踏み込みの浅い考察ゆえのことと受け止めていただきますようお願いいたします。

以上、たいへん長くなりましたが、終わります。
ご一読いただきまことにありがとうございました。

2011年9月29日
巴だリョウヘイ 


091005いなきの稲

_ _ _ _ _ _ _ _ _ _

以下、個人的メモ/思考の跡


・対立について

対立によって何かが失われるのではなく、何かが失われた結果が対立なのではないか。
失われたものは「愛」かもしれないし、「信仰」かもしれないし、「相互理解」や「共通感覚」そして「創造性」かもしれない。
残念ながら、それはわからない。

わかるのは、人の主義や伝統の束縛や教育が、人が持つ無数の結論が、そもそも人と人とを分断してしまっている、その結果対立が生まれているということ。
「これが正しい」と言って「結論」を他者にぶつけるとき、人はすでに他者と自分を区別している。
区別とはつまり、対立であり、差別である。

こうした根源的な対立についての理解の上に立ち我々は、【「思想・概念の対立」と、「人と人との感情的対立=敵対」を峻別するべき】。

原発の廃止/稼働の二者択一は、思想・概念の対立。
であるのに、それが往々にして人の感情を巻き込み、人と人とが敵対してしまうように見える。
「善悪をはっきりさせて態度を表明する」人は、感情的対立を生んでしまいやすい。
つまり、「原発を推進する人は悪人だ(反対する人は善人だ)」と規定すると、敵対が生まれる。
なぜなら、善悪という規定は、倫理の領域、非論理の領域の概念であるから、他者から悪人だと規定された側は、論理的に応じることができず、感情的に反発するしかなくなってしまうから。
その反発が相手のさらなる反発をも生み、双方は敵対することになってしまう。
それゆえ、我々が今まず解消すべきは敵対である。
そうすれば、概念の対立を平和友好的に、理性的・知的に取り扱うことができる。

敵対を解消させる力のひとつに、表現行為がある。
表現行為は、感情の源泉から発するがゆえに、対立する感情を融和する力を持つ。


・デモについて

ある人にとっては、デモは表現行為なのだ。
自分で工夫して思いを込めてプラカードを作り、楽器を用意して音楽を鳴らし、腹の底から叫ぶこと。
このこと自体は、ひとつの表現行為。
それも、このたびのデモを見るに、多くの人にとってデモは「止むに止まれぬ表現」なのだ!
それを否定することは何人にもできない。

国民国家であるこの国には立憲主義と議会制民主主義と選挙というものがあるのだから、それを第一に考える。
が、それが権力によって踏みにじられたときには、国民には声を挙げる権利がある。
その当然の権利のひとつが、デモである。
多くの人もそう考えていると想像することは、それほど的外れではないように思える。


・対話について

>ただイエスとノーの間の反復運動が繰り返されるという惰性におちいることを危惧しています。(「状況の中の…」より)

同感。
思想的対立であれ、感情的対立であれ、双方がイエスとノーの両方を受け入れることが解決への道筋。

イエスとノーの両方を受け入れることは、問題を先送りすることでも、妥協点を探ることでも、いわゆる歩み寄りでもない。
それは、より良き道を見いだすための共同作業の端緒なのだ。
つまり、対話の始まりである。

対話とは、お互いがお互いの考えを自分の考えと同等に取り扱うことによって、お互いにとってのより高い次元の道を見いだすための作業。
他者を論破することによって同一平面上の異なる地点へ移動させることではない。
そして、見いだすものはあくまで「道」であり、「答」ではない。
まず「道」を見いだせば、答は必然的にその途上に現われるはず。

>なにが正しいかわからなくなっているから、人の意見を聞きたいと思い、意見を聞く人たちに向けて、語られていく言葉のなかに、また、微細な変化が起こる。(同)

これは、私が思い描く対話のあり方そのもの。


以上。

 おしまい。 
11.09.28 記 


黄花コスモス


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twitterのご縁からランディさんとのやりとりを拝読しました。時間をかけて書くということが、考えるという創造にもつながることをぼくも一度経験しました。ただ対話ということになると、書く行為を通してではもどかしいところがあるようです(読んでいてとてももどかしかったものですから)。面と向かって話すことでなら、おふたりの距離はさらにぐんと近くなるのかもしれませんね。
マスノマサヒロ EDIT
at : 2011/09/30(Fri) 18:48:16
Re:無題
マスノマサヒロさま

ブログを読んでいただき、またコメントまでいただき、ありがとうございました。
日頃 twitter を通して注目させていただき、写真からも文章からも、たいへん多くの示唆を受けているマスノさんからコンタクトをいただき光栄です。

マスノさんはランディさんのことを、きっとよくご存知なのだろうなと思っておりました。
それゆえに、ここに書かれたように、もどかしいとの思いを抱かれたのかなと想像しております。

おっしゃる通り、このたびのことでワタシは自分を見つめ直し、様々な考えをまとめ、そのことがワタシ自身にある意味で力を与える良き機会になったと感じてます。
が、これもおっしゃる通り、文章による表現力の自分の限界の低さも痛感しました(…理解力は言うまでもなく)。
もとより悪意があってランディさんと関わり始めたわけではありませんし、それは今も変わりません。
それでいて、こうして互いの考えを、銘々の自分のために用意した場だけで表明し合うことで、果たして距離が埋まるのだろうかというやるせない思いもありました。
とは言っても、ランディさんとお目にかかる機会が得られるとも思いませんし、もしワタシがランディさんを信頼するのであれば、その必要もありません。

自分の考え、思いが100%は伝わらなくても、信頼することはできます。
ランディさんは「対話」を大切にされています。
ワタシもです。
それゆえに、深い所でワタシはランディさんを信頼できます。
無礼な言い方をお許しいただけるなら、ランディさんもそうであると信じます。
お互いがそのスタンスであれば、例え今ここで少々の行き違いがあったとしても、それぞれの時空間においてそれを消化(昇華)し、それぞれの道が重なり合う時を待てるのではないかと思ってます。

お気遣いをいただいたことに格別の御礼を申し上げると共に、マスノさんとお出会いできたことに改めて感謝いたします。
ありがとうございました。
これからも是非よろしくご指導くださいますように。

「佇む人」素晴らしかったです。
老人の体温までが伝わってくるようでした。

 巴だ
at : 2011/09/30 21:21
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揚琴・笛演奏屋 オカリナのセンセイ
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自己紹介:
 
演奏活動範囲/全国の都心から山間地まで。
演奏場所/ホールからお座敷まで。オカリナは野外歓迎。
演奏目的/オープニングセレモニーから追悼演奏まで。
演奏形態/独奏から異業種間共演まで。
所属事務所/Magnolia Music(自分的オフィス)

コンタクト方法/上記のホームページ(HP)の「FAQ & Form」のページからどうぞ。

特 技/晴れ男であること。

オカリナ倶楽部 “夢見るガチョウ” 主宰。

2018年、京都府下農村から大阪府下住宅街に移住。
今も雨乞い師見習い。
今も自然農見習い。
ノアのおとうちゃん。
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