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揚琴、オカリナ & インディアンフルート奏者がつづるいろいろばなし。
音楽、田舎暮らし、自然・環境、時事、ほかいろいろ。
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9月24日のこと。
ワタシは作家・田口ランディさんのブログに掲載された記事のひとつに対する批判的な内容のツイートを投稿した。
すると翌日、ご本人から返信が来た。
そこで案内されていたリンクを開くと、ご自身のブログに、ワタシへの答とされた長文のエントリがアップされていた。
タイトルにはワタシの名前が用いられていた。
ワタシのようなしがない者が書いたツイートに対して著名な作家さんがここまでされるとは思わなかったので、仰天してひっくり返ったのはもちろんだ。
まさにへんたいだ。
が、ワタシもきっちりお返事させていただくことにした。
が、この方のブログにはコメント欄が無く、と言って twitter で返信するには字数が足りないので、ここにアップさせていただくことにした。
長文に対しては長文のお返事を、となったが、ご関心がある方はどうぞご一読を。

拍手[8回]


ワタシが批判した田口ランディさんのエントリ

田口ランディさんがワタシへのお返事とした書かれたエントリ
(9月26日に削除されてしまっていたのでワタシの方で本文のみ再掲させていただきました)

ワタシが9/24に投稿したツイート。(リンクのURLのみ訂正)
「Ryohei_TMD 巴だリョウヘイ
沈黙しか答がないかのような極めて残念な結論。「本質的な解決はない」という言葉を「巨大な宇宙的現実」と補強して、読者をそこに呼び込んでおしまい。表現者ならなぜ表現という手段の可能性に言及しないのか。@randieta http://t.co/KxRTGM7O


「Ryohei_TMD 巴だリョウヘイ
「突然やってきて『ここへ原発を建てる』と言う人に対しても沈黙せよと?」には「私が言う沈黙とはそのようなものではなく、対立を超えるための沈黙なのです」かな?自らを超越的な位置に置いてしまう人こそ他者と対話ができないのでは。@randieta http://t.co/KxRTGM7O」


田口ランディさんが9/25にワタシに下さった最初の返信ツイートの一部
「 randieta RANDY TAGUCHI
@Ryohei_TMD ●●●●● runday.exblog.jp/16896076/

※ ランディさんは、ワタシへのお返事的エントリを投稿の後すぐに海外へ発たれたそうです。
「私は明日は東京でイベントがあり、その後に海外に出てしまい、しばらく日本を留守にしてしまいます。ですので、もしこの文章に対してなにかお返事をいただいても、すぐにはお応えできませんので、そのことをあらかじめご報告しておきます」とのことでした。

以下、本文
_ _ _ _

田口ランディ様

適切な方法かどうかわかりませんが、私のブログにて返事を書かせていただきます。

私のツイートに対して、大変ご丁寧にお返事をくださり、ありがとうございます。
田口ランディさんの「巴だリョウヘイさんへ/RTへのおこたえとして/沈黙について」は、けっして私だけに宛てて書かれたものではないとは思いますが、以下、「状況のなかの沈黙について」と「巴だリョウヘイさんへ…」について思う所を述べさせていただきます。

>リョウヘイさんと、お呼びしてもよろしいでしょうか。リョウヘイさんは、私の「状況における沈黙について」というブログの文章を読まれて、twitterにRTをなさってきたのですね。そして私の文章を「沈黙しか答えがないかのような極めて残念な結論」として、「表現者ならなぜ表現の可能性に言及しないのか?」と私に対して問題提起されているのですね。(「巴だリョウヘイさんへ/RTへのおこたえとして/沈黙について」より)

>りょうへいさんは、あえて@randietaとして、私に届くようにtweetをRTなさいましたね。それはありがたいことです。私に発言の機会をくださったのですから。問うということは、勇気のいることだと思います。(同)

そうではありません。(以下、私もランディさんと呼ばせてください)
私のツイートは「@関連(メンション)」でした。
つまり、ランディさん個人に宛てた「返信(リプライ)」ではなく、ランディさんのエントリをリンクし、さらにリンクしたエントリの筆者の情報を明示する意味で「@randieta」と挿入したのです。
ですから、ランディさんがエントリのタイトルほかに、私のツイートのことを「RT(リツイート)」と表記しておられることも適切ではありません。
該当ツイートは、私の個人的つぶやきです。
このような事情ですので、私はランディさんご自身に対して直接問いかけ・問題提起をしたわけではありません。

その上でこうしてお返事させていただくのは、引用者には引用元の筆者からの引用内容・引用方法についての抗議に対しては答え、訂正すべきは訂正する義務があると考えるからです。
また、ランディさんにとっては、私のツイートの形式が返信であろうと引用であろうと、ツイート内容が持つ意味合いには大差ないと思います。
このことからも、当便にてお返事させていただくことには意味があると考えます。


さて、「巴だリョウヘイさんへ…」でランディさんが私におっしゃりたいことは、「状況のなかの沈黙について」に込められたランディさんの真意を私が誤読している、正確に読み取ってほしい、とのことと理解いたしました。

ランディさんは「巴だリョウヘイさんへ…」の中で私のために、

>なにも損なわないで出来る事などないのであり、解決もないのであり、それでも変えていかなければならない。それは、高揚を伴うような正義の感覚ではなく、非常に抑うつ的で、無情で、うんざりするような不安定な心境を伴うのです。でも、その悶々とした抑うつのなかにこそ他者への拓きがある。なにが正しいかわからなくなっているから、人の意見を聞きたいと思い、意見を聞く人たちに向けて、語られていく言葉のなかに、また、微細な変化が起こる。それは、短気な人にとっては「悠長すぎる」方法論かもしれませんが、私には最良にして最短の道に思えてなりません。
私たち日本人は高度成長、バブル経済という妄想的な分裂状態を経て、非常に深い抑うつ的でメランコリックな『気づき』の時期に入ってきているように思います。この状況のなかで『沈黙』することは、なんらかの形で世界のバランスをとっているように思えるのです。(『 』は 巴だ が記入)

…と「状況のなかの沈黙について」の一文を再掲され、

>いかがでしょう。この文章の中に「沈黙しか答えがない」ということは書かれているでしょうか。

…と私に問いかけられました。
これを受けて、私は再考し、いくつかの新たな考えに至りました。

再掲文での『沈黙』という言葉は、ひとつ前の文の『気づき』を受けているのですね。
つまり、気づきに至るために必要な沈黙、動的で、肯定的で、新たな創造のためのエネルギーに満ちた沈黙なのだということですね。
そしてその沈黙は、対立を傍観することからではなく、「なにも損なわないで出来る事などないのであり、解決もないのであり、それでも変えていかなければならない」という事実認識に発する「高揚を伴うような正義の感覚ではなく、非常に抑うつ的で、無情で、うんざりするような不安定な心境」に意識的に留まることから生まれるべきであると。
であれば、ランディさんがおっしゃるこの沈黙が、私が読み取ったような「賛成反対の二項対立に対する新たな対立」としての沈黙ではないのだとわかります。
そしてまた、対立を超える方法とはこの沈黙ですらなく、この創造的な沈黙からいずれ生まれることを確信する真正な創造行為であるということなのですね。

であれば、私がツイートに書いた「表現者ならなぜ表現という手段の可能性に言及しないのか」もまた的外れであるとわかります。

この理解で概ねよろしければ、「沈黙しか答がないかのような極めて残念な結論。…表現者ならなぜ表現という手段の可能性に言及しないのか」のツイートは撤回させていただき、誤読に基づく意見をツイートしてランディさんに不快な思いをさせてしまったことをお詫びさせていただきます。

私は、ランディさんが短く書かれた「気づき」という言葉に着目し、それを表現という言葉に引きつけて、ランディさんの真意を探りました。

私は表現することから「気づき」が生まれるとは思いません。
気づきが表現に先立たなければなりません。
そして真に気づくためには、徒に、反射的に、皮相な、乃至現実逃避的な表現をしてしまってはダメで、絶対に、沈黙の内にあり、自分を取り巻く状況において自分自身を観察することが必要です。
その沈黙は、動的で、肯定的で、新たな創造のためのエネルギーに満ちた沈黙なのです。
ですから、表現は目的ではなく気づきの結果である、気づきこそ重要であると、私は考えています。

このような視点から、もしや、表現よりも沈黙そのものよりも「気づき」が重要であると、ランディさんも考えておられるのではないか、と思い至った次第です。

ちなみに、沈黙は、表現の一形態であるとも思います。
が、そのことについては別の機会に語られるのが良いと思います。

以上、ランディさんの私宛のエントリに対してお答えさせていただきました。
著名な作家の方にこのような拙文をお送りすることを恐縮しております。
また、ランディさんのブログと公式HPにはコメント欄がありませんでしたので、このような場でお返事差し上げるしかなかったことを、どうぞご理解くださいますようお願いいたします。


さて、もしここで終わってしまっては、ランディさんがその後下さったツイートのように「コミュニケーションはそこから挫折」してしまうのでしょうね。
以下も、ランディさんの「状況のなかの沈黙について」と「巴だリョウヘイさんへ…」について考えたことです。
ここには、私が誤読であったと考える見解に至った経緯も示されていると思います。
また、私自身が何をどのように考えている人間であるかについても勢い触れられていますので、私の考察の背景を少しは示していることにもなっていると思います。
ランディさんがもしまだ私にご関心をお持ちでしたら、流し読みでも拾い読みでもしていただければ大変うれしいです。

ここで私が最も問題にしたことは、ランディさんの「一部の人のあり方をさも全体のあり方であるかのように見なして考え、発言する」という表現手法でした。
なぜなら、この手法は歴史上、邪な目的のために使われてきた手法のひとつであったからです。
言うまでもなく、ランディさんにそのような意図がなかったことは、今は、いや、始めから理解しております。
ですから、私のような不勉強で読解力に乏しい者は、何ゆえにか量りかねるがたまたまあのような書き方をされてしまったのだろうと納得するしかないのですが。

多くの方がランディさんの書かれたものに共感しておられる理由についても少し考えました。
ランディさんの文章には、読む人が自分の思いを投影しやすい何かがあふれていると感じます。
そして「状況のなかの沈黙について」に対して寄せられているたくさんのツイートを読むと、皆さんは、ランディさんの文章に流れる穏やかな感情と、真摯な語り口に共感しておられるのだということが伺えます。
それゆえに私は、ランディさんがたまたま「一部の人のあり方をさも全体のあり方であるかのように見なして考え、発言する」ような手法を採られても、ランディさんご自身を非難する気持ちになるどころか、いただいたお返事を真摯に受け止め、ランディさんや読者の皆さんに対して恥ずかしくないように、再度熟考しお返事させていただこうと考えたのでした。
その上で、以下の通り、同意すべきは同意し、批判すべきは明確に批判させていただいた次第です。

 次便につづく。 
11.09.26 記 


秋明菊09


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巴だ リョウヘイ
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揚琴・笛演奏屋 オカリナのセンセイ
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自己紹介:
 
演奏活動範囲/全国の都心から山間地まで。
演奏場所/ホールからお座敷まで。オカリナは野外歓迎。
演奏目的/オープニングセレモニーから追悼演奏まで。
演奏形態/独奏から異業種間共演まで。
所属事務所/Magnolia Music(自分的オフィス)

コンタクト方法/上記のホームページ(HP)の「FAQ & Form」のページからどうぞ。

特 技/晴れ男であること。

オカリナ倶楽部 “夢見るガチョウ” 主宰。

2018年、京都府下農村から大阪府下住宅街に移住。
今も雨乞い師見習い。
今も自然農見習い。
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