揚琴、オカリナ & インディアンフルート奏者がつづるいろいろばなし。
音楽、田舎暮らし、自然・環境、時事、ほかいろいろ。
どうぞ、ごゆっくり。
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急に冷え込みが厳しくなってきた十月の終わりの日のこと。
古いファイルを整理していたら、昔ホームページに書いた文章が出てきた。
2003年7月、大阪でフジ子・ヘミングのソロ・ピアノリサイタルを聴いた際のリポートだ。
音楽の普遍的なテーマを取りあげたものであるからか、内容は少しも古くなっていないように思う。
その一部を抜粋し、改めてここに記したい。
古いファイルを整理していたら、昔ホームページに書いた文章が出てきた。
2003年7月、大阪でフジ子・ヘミングのソロ・ピアノリサイタルを聴いた際のリポートだ。
音楽の普遍的なテーマを取りあげたものであるからか、内容は少しも古くなっていないように思う。
その一部を抜粋し、改めてここに記したい。
── ── ── ── ── ── ──
[ 音の神力 ]
はるか前方に、淡い紫の、薄くかろやかな素材の衣装を身につけて、ピアニストは現われた。
その歩みは、ためらい勝ちのようにも、はやる気持ちを押さえるかのようにも見えた。
ゆっくりと、確かめるように椅子に座り、ひと呼吸の、何かを思い起こすかのような仕草。
その指がしなり、ショパンの「エオリアン・ハープ」が奏でられた。
・・・なんという、霊妙でいてかろやかに歌われる旋律!
4小節ほど進んだところで、わたしはいっしょに歌ってしまいそうになる誘惑を押さえるのに苦労した。
しだいに引き込まれ、連れてゆかれる。
深まり、高まる。
一連の音はごくごく微妙に速くなり、緩くなり、あたたかく息づいている。
響きは光り、輝いている。
人が「現実世界」と言う時、それは巷の、約束事や義務とモノと嘘とまやかしのあふれた世界のことを意味する。
であれば、フジ子がわずか数小節の演奏でわたしをそこから引きずり出し、示してみせた世界を、なんと呼べばいいのだろう?
それはけっして非現実の世界ではなかった。
それは確かに目の前で息づき、いのちがあふれていた。
押し出すように見えるタッチは、けっして音を押し出してはいない。
叩くようなタッチも、けっして力まかせではない。
すべての動作が「気」を発している。
「気」が演奏している。
フジ子の演奏を聴いていつも思うのは、音楽を構成するすべての音の役割が実に明快に表現されているということだ。
音の流れを支配するパート、響きを創造するパート、構造を明確にするパート、つまりは主旋律、内声、バスである。
主旋律は多くは最も高位に、内声はまん中に、バスは低位にあるが、随時入れ替わる。
この役割分担と統合が明快になされないと、ショパンやリストのような複雑な響きを内包する曲はただの音のかたまりと成り果ててしまう。
わたしはこれまで、響きというものは会場を満たすものでなければならないと考えていた。
それが、この夜のフジ子の響きを耳にして、響きを表現するにあたって最も重要なものは質量ではなく、存在感なのだと知らしめられた。
存在感に満ち満ちた響きは、質量が小さくとも遠くまで届くのだ。
わたしの席は二階席。
ピアノまで 30 m はあろうかと思われる。
二千人は入るこのホール、多くの人がわたしと同様の条件にあったわけだが、フジ子の響きは確かにそのひとたちにも届いていた。
その響きはただそこにあり、しかしここにもあった。
他の大勢の、特に若い男性ピアニストの音量があり、精確なタッチに比べると、フジ子のそれは見劣りするのは否めない。
が、それがどうした?
細部への執着はそこになく、いのちの注入が最優先事項とされている。
「少しくらい間違ったっていいのよ、機械じゃあるまいし」フジ子の言葉が思い出される。
人間は機械ではないというこの当たり前のことが腑に落ちないときが多い。
機械のように精確に行ない、機械のようにくり返すことを、知らず知らず自らにも要求していることがある。
しかし、そこにいのちが込められていなければ、そうして出来上がったものにどれほどの価値があろう?
それは消費され、いずれは使い捨てられるのだ。
いのちは響き、伝わる。
器が消滅しても、他の中で存在しつづける。
後半の1曲目(※ リストの)「ため息」の冒頭。
この旋律こそがフジ子である。
このなだらかで、おおらかで、少しも悲しくはない間合いで吐き出されるため息は、創造に少しばかり疲れた神のため息である。
中盤の展開部、リストが作曲中に行き詰まり出口を探すうちに、ほとんど偶然のように見い出されたかのような旋律が、立ちのぼる薄煙に反射する淡い光のように現われる。
ぎりぎりまで抑制された響きが、リストの新たな音の発見へと至る苦悩と克服の歓びまでもを、一瞬で描き出している。
あの音は、やはりそのような状況から生まれたに違いない…そんな確信をもわたしに持たせる音であった。
このように人を動かし、追随させる音の力とは、いったいどこから生まれてくるのだろう?
何度考えてもわからないこのギモン。
フジ子の音はけっしてピアノからではなくフジ子から発している。
フジ子から発するこの音は、どうやってフジ子に入っていったのだろう?
音に込められた何が人を動かすのだろう?
再三、そこにはいのちが込められていたと述べた。
「いのち」と呼ぶことでわかったような気にさせるこの何か。
これをもっともっと追求してみたいという欲求が、演奏を聴き終えたわたしの中にむくむくと湧き上がってきた。
そこに込められたものはなんであるのか?
連綿とつづくいのちの、エネルギーの連鎖の流れのようなものだろうか?
その全貌はわからずとも、その何かが有して行使する力はそのエネルギーの力であり、美はその輝きに違いない。
音楽は、音は、この力を持つことができる。
この力は、「神力(しんりょく)」とでも呼ぶ以外ないような力である気がする。
「魔力」があるんだったら「神力」があったっていいじゃないか。
「美」は美としか呼べないが、その言葉が示している「感じ」をかなり明確に把握しうる。
しかし、この込められたなにものかを的確に表現する言葉が存在しないのは、不思議といえば不思議だ。
それとも、すべてはわたしの想い描いた虚構なのだろうか?
── ── ── ── ── ── ──
抜粋・転載以上
おしまい。
16.10.31 記
おしまい。
16.10.31 記
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コンタクト方法/上記のホームページ(HP)の「FAQ & Form」のページからどうぞ。
特 技/晴れ男であること。
オカリナ倶楽部 “夢見るガチョウ” 主宰。
2018年、京都府下農村から大阪府下住宅街に移住。
今も雨乞い師見習い。
今も自然農見習い。
ノアのおとうちゃん。
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