揚琴、オカリナ & インディアンフルート奏者がつづるいろいろばなし。
音楽、田舎暮らし、自然・環境、時事、ほかいろいろ。
どうぞ、ごゆっくり。
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#327 実 り
ひと口食べただけで感動に満たされた深い沈黙にいざなってしまう食べ物というものがある。それは、その食べ物の味だけがそうさせるのではない。その沈黙を生み出すものは、その食べ物の生命力であり、真正さであり、生い立ちなのだ。そんな食べ物にひさしぶりにめぐり会った。
ひと口食べただけで感動に満たされた深い沈黙にいざなってしまう食べ物というものがある。それは、その食べ物の味だけがそうさせるのではない。その沈黙を生み出すものは、その食べ物の生命力であり、真正さであり、生い立ちなのだ。そんな食べ物にひさしぶりにめぐり会った。
籾が稲になり、稲が米になり、米がご飯になって口に入る。自然と人間が一体になって行なうこの営みを、地球上の何億もの人々が営々とくりかえしている。が、この国ではその営みは、ずいぶん様変わりしてしまった。
一反(約10アール=10m四方が十枚分)にも満たないほんのわずかな田んぼで、手で田植えをし、草を刈り、稲刈りをし、天日に干して、昔ながらの人力農機具で米を作っている人々がいる。それは、家族のためだけに作る米かもしれない。が、その方法と目的こそが、本来の米作りだったのだ。
一粒の米の生い立ちが、味を作る。家族で共に働き、収穫した米の味は、常に食卓の中心にあった「ご飯」という食べ物にふさわしい、生命力あふれる真正な、それこそ神聖な味となる。そんなご飯は、家族を幸せにし、その幸せは自然に周囲に広がって行く。
そんなご飯をたったひと口口にしたとき、ワタシの手は止まり、深い沈黙の内で口だけが動きつづけた。そのとき、甘み・香ばしさ・うま味といった味覚は、どこかに消し飛んでしまっていた。口の中には、ただ米の生命力だけが広がり、そのうち胸が熱くなり、噛むことすらむずかしくなってしまった。そのときワタシは、その米を作りご飯を炊いた家族の幸せのお裾分けを、まちがいなく十分すぎるほどに受け取っていたのだ。
近所にワタシと同時期に入植したKさん一家は、この三年間、上に書いたような米作りをしてきた。周囲の農家の批判と冷たい目に負けず、自分が信じるやり方を貫き、無理せず、欲張らず、それでいて必ずうまくいくという思いを捨てなかったKさんの田んぼは、今年はとうとう周囲の田んぼにひけを取らない収量となった。お勤めをしながらこのような米作りをつづけるKさんの情熱には、まことに頭が下がる思いだ。
きのう、その米を炊いたご飯をいただいた。折りも折り、この一週間、ウチではあることがきっかけになり、上記のような方法の米作りの勉強を進めていたときだった。Kさんのご飯は、これこそが本物の米であり、本物の食であるとの確信を、たったひと口でワタシに持たせてしまった。
これまで十数年間、家族でわずかばかりの自家用の野菜を作ってきた。それはもちろん、どこにも負けない味だったが、Kさんのご飯を食べたとき、「主食」の意味が一瞬でわかった。
主食が本物であれば、どのような副食を摂るべきかは自ずと決まるのではないか、また主食が本物でなければ、ウチの野菜作りはいつまでも、中心を求めての放浪にすぎないのではないかと思えてきたのだ。
この国のほんの一部の人々が、機械と農薬と化学肥料を使って、国全体の人々の口に入る米をまかなっている。その結果、土は死に、川と海は汚れ、何よりもご飯の味は落ち、ありがたみは失われた。おまけに、国の政策と米の作り手が減ったことにより、放棄された田んぼの成れの果ての荒れ地が国中に広がりつづけている。水田が果たしていた緑と水の保全が、耕作放棄地の増大によって損なわれ、気候の変動と水不足に拍車をかけている。
昔ながらの米作り、いや、はっきりと「正しい米作り」と呼ぼう、正しい米作りは、身体と心を守り、家族と人々の絆を守り、国土を守る。
今住んでいる農村に広がるけっして広くはない田んぼを眺めるとき、これらがすべて本物の田んぼ、「正しい田んぼ」であれば、ここはまさにパラダイスなのにと痛感する。鳥が通い、ドジョウが泳ぎ、無数の昆虫が暮らす田んぼは、人と自然との合作のパラダイスの中心なのだ。現状の農村は、言ってみればパラダイスの成れの果てだ。田舎暮らしに漠然と憧れる人たちは、この点をどう感じ、どう考えるのだろうか。
それでいて、農村こそがパラダイスにもっとも近い土地であることはまちがいない。そこには無限の可能性がある。ただし、その可能性は、年々歳々小さくなっていっている。
一反(約10アール=10m四方が十枚分)にも満たないほんのわずかな田んぼで、手で田植えをし、草を刈り、稲刈りをし、天日に干して、昔ながらの人力農機具で米を作っている人々がいる。それは、家族のためだけに作る米かもしれない。が、その方法と目的こそが、本来の米作りだったのだ。
一粒の米の生い立ちが、味を作る。家族で共に働き、収穫した米の味は、常に食卓の中心にあった「ご飯」という食べ物にふさわしい、生命力あふれる真正な、それこそ神聖な味となる。そんなご飯は、家族を幸せにし、その幸せは自然に周囲に広がって行く。
そんなご飯をたったひと口口にしたとき、ワタシの手は止まり、深い沈黙の内で口だけが動きつづけた。そのとき、甘み・香ばしさ・うま味といった味覚は、どこかに消し飛んでしまっていた。口の中には、ただ米の生命力だけが広がり、そのうち胸が熱くなり、噛むことすらむずかしくなってしまった。そのときワタシは、その米を作りご飯を炊いた家族の幸せのお裾分けを、まちがいなく十分すぎるほどに受け取っていたのだ。
近所にワタシと同時期に入植したKさん一家は、この三年間、上に書いたような米作りをしてきた。周囲の農家の批判と冷たい目に負けず、自分が信じるやり方を貫き、無理せず、欲張らず、それでいて必ずうまくいくという思いを捨てなかったKさんの田んぼは、今年はとうとう周囲の田んぼにひけを取らない収量となった。お勤めをしながらこのような米作りをつづけるKさんの情熱には、まことに頭が下がる思いだ。
きのう、その米を炊いたご飯をいただいた。折りも折り、この一週間、ウチではあることがきっかけになり、上記のような方法の米作りの勉強を進めていたときだった。Kさんのご飯は、これこそが本物の米であり、本物の食であるとの確信を、たったひと口でワタシに持たせてしまった。
これまで十数年間、家族でわずかばかりの自家用の野菜を作ってきた。それはもちろん、どこにも負けない味だったが、Kさんのご飯を食べたとき、「主食」の意味が一瞬でわかった。
主食が本物であれば、どのような副食を摂るべきかは自ずと決まるのではないか、また主食が本物でなければ、ウチの野菜作りはいつまでも、中心を求めての放浪にすぎないのではないかと思えてきたのだ。
この国のほんの一部の人々が、機械と農薬と化学肥料を使って、国全体の人々の口に入る米をまかなっている。その結果、土は死に、川と海は汚れ、何よりもご飯の味は落ち、ありがたみは失われた。おまけに、国の政策と米の作り手が減ったことにより、放棄された田んぼの成れの果ての荒れ地が国中に広がりつづけている。水田が果たしていた緑と水の保全が、耕作放棄地の増大によって損なわれ、気候の変動と水不足に拍車をかけている。
昔ながらの米作り、いや、はっきりと「正しい米作り」と呼ぼう、正しい米作りは、身体と心を守り、家族と人々の絆を守り、国土を守る。
今住んでいる農村に広がるけっして広くはない田んぼを眺めるとき、これらがすべて本物の田んぼ、「正しい田んぼ」であれば、ここはまさにパラダイスなのにと痛感する。鳥が通い、ドジョウが泳ぎ、無数の昆虫が暮らす田んぼは、人と自然との合作のパラダイスの中心なのだ。現状の農村は、言ってみればパラダイスの成れの果てだ。田舎暮らしに漠然と憧れる人たちは、この点をどう感じ、どう考えるのだろうか。
それでいて、農村こそがパラダイスにもっとも近い土地であることはまちがいない。そこには無限の可能性がある。ただし、その可能性は、年々歳々小さくなっていっている。

無題
リョウヘイ君の生き方はいいな~最高だよ! うらやましい・・・
Re:無題
前はオーナーさま
うらやましいだなんて・・・
農村を「パラダイスの成れの果て」だなんて言って、農家のみなさん、すみません。
自分で米を作っているわけでもないのに、えらそうなことを言ってますね。
ところで、ワタシのふるさとは、今も京都のにぎやかな街のど真ん中です。
それと、みゃんまーの山村も。
今は、ここをもうひとつのふるさとにしたいと思ってます。
ふるさと、いくつあってもいいんじゃないかと。
成れの果てであろうがなんであろうが、ここが好きになったから移ってきたのです。
欲張りはいかん。
ワタシを物心両面で生かしてくれているこの地に毎日感謝してます。
ただ、だからこそ、もっともっと良くしたいと。
・・・ぜんぜん見当はずれの応えかもですね。
これまで反応が少なかったこのカテゴリーへのコメント、ありがとうございました。
うらやましいだなんて・・・
農村を「パラダイスの成れの果て」だなんて言って、農家のみなさん、すみません。
自分で米を作っているわけでもないのに、えらそうなことを言ってますね。
ところで、ワタシのふるさとは、今も京都のにぎやかな街のど真ん中です。
それと、みゃんまーの山村も。
今は、ここをもうひとつのふるさとにしたいと思ってます。
ふるさと、いくつあってもいいんじゃないかと。
成れの果てであろうがなんであろうが、ここが好きになったから移ってきたのです。
欲張りはいかん。
ワタシを物心両面で生かしてくれているこの地に毎日感謝してます。
ただ、だからこそ、もっともっと良くしたいと。
・・・ぜんぜん見当はずれの応えかもですね。
これまで反応が少なかったこのカテゴリーへのコメント、ありがとうございました。
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管理人について
HN:
巴だ リョウヘイ
性別:
非公開
職業:
揚琴・笛演奏屋 オカリナのセンセイ
趣味:
ほしい。
自己紹介:
演奏活動範囲/全国の都心から山間地まで。
演奏場所/ホールからお座敷まで。オカリナは野外歓迎。
演奏目的/オープニングセレモニーから追悼演奏まで。
演奏形態/独奏から異業種間共演まで。
所属事務所/Magnolia Music(自分的オフィス)
コンタクト方法/上記のホームページ(HP)の「FAQ & Form」のページからどうぞ。
特 技/晴れ男であること。
オカリナ倶楽部 “夢見るガチョウ” 主宰。
2018年、京都府下農村から大阪府下住宅街に移住。
今も雨乞い師見習い。
今も自然農見習い。
ノアのおとうちゃん。
演奏活動範囲/全国の都心から山間地まで。
演奏場所/ホールからお座敷まで。オカリナは野外歓迎。
演奏目的/オープニングセレモニーから追悼演奏まで。
演奏形態/独奏から異業種間共演まで。
所属事務所/Magnolia Music(自分的オフィス)
コンタクト方法/上記のホームページ(HP)の「FAQ & Form」のページからどうぞ。
特 技/晴れ男であること。
オカリナ倶楽部 “夢見るガチョウ” 主宰。
2018年、京都府下農村から大阪府下住宅街に移住。
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今も自然農見習い。
ノアのおとうちゃん。
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