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揚琴、オカリナ & インディアンフルート奏者がつづるいろいろばなし。
音楽、田舎暮らし、自然・環境、時事、ほかいろいろ。
どうぞ、ごゆっくり。
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#135 Flowering

 身のまわりのあらゆる動作を、ていねいに行なってみる。機械的にことを運ばない。ひとつひとつの動作を努めて「注意深く」「意識的に」行なう。そうすることで、その動作の質は高まり、やがて心は静まる。

 人とのつきあいも同じことだろう。意識的にていねいに接することで、関心は持続される。

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 新月の夜の9時4分に願い事をよっつすると叶うんだって。しらなかった。

 今宵は新月。竹や木を切るのは新月の日がいい。新月の日は竹や木の成長がいちばん少なくなる日なので、切ったあとでそりやゆがみがいちばん小さくなるという。
 そして、新月の日はスタートの日。きょうは新しいことが始まる予感が生まれた。

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 五輪書についてはもう終わろうと思っていたが、もう少しだけ。古人の「拍子」感について興味深い言説があったのだ。

 武蔵はこの書の「水の巻」で、「拍子」という言葉を用いている。拍子は一般的にはリズムと訳されるが、武蔵がここで言う拍子は、敵に刀を打ち込むタイミングというか、間合いの詰め方を表わしているのだ。武蔵はいわゆる間合いの詰め方を、より動的に、躍動的に感得させるために拍子という表現を用いているのだとワタシは思う。
 敵がどのような意図を持っていて、次の瞬間どのような行動に出るかを瞬時に見極めて、「予備動作なしに一気に」打ち込んで先手を取る。この「予備動作なしに一気に」という動きを、武蔵は「一拍子」と表現している。
 1拍子というものは、拍子という言葉を用いるが、連続性がない動きなので、厳密にはリズムであるとは言えない。やはり「間」の概念と言うべきだろう。

azami.jpg

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 前便で、兵法の修得の道は、オカリナなどの楽器の演奏の修得の道に通じる、と書いた。今便ではそのあたりのことを。

 五輪書に書きつづられた兵法の修得の道の根底に流れるものは、どうやら「平常心」というもののようだ。戦いの場においていつもと変わらぬ心でいることが平常心だと誤解されやすいが、五輪書が言う平常心はそうではない。逆に日常においても戦いの場での心境を保ち続け、日常と戦いの場での心境を限りなく近づけてゆくことで得られる心境なのだ。このようにしていくことで、常に穏やかで何ものにも乱されない心境へと到れるという。
 本番の演奏で緊張のあまり練習の成果を発揮できないと感じる人は多い。よく言われるように「場慣れ」するということ。これは、単に非常時の心境を平常時の緊張感も集中力もない心境に近付けるという意味であり、五輪書の教えにしたがえば誤りだと言える。ワタシもまったく同感で、緊張感のまったくない演奏は人の心に届かない。

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 並行していくつもの本や文書に目を通していると、自分で何か書くということがなかなかできなくなりますな。そんな日々なのだ。

 その中の読みかけの一冊に、宮本武蔵の「五輪書」がある。武蔵の唯一の自著であるこの書は、武士の世界で「兵法」と呼ばれるものについての独自の見解をしたためた本だ。「兵法」とは剣術と、一対一または集団対集団の戦術、そしてそれらをいかに身につけるかの方法論のことである。
 武蔵は生涯独学の人だった。それだけに、不敗の体験を通して積み上げられた研究の成果にはたいへん説得力がある。そんな五輪書をいつかじっくり読んでみたいと思っていたのだが(学生の頃に立ち読みだけで挫折した)このたび突然義父から送られてきた。古書を整理してたら出てきたのでよかったら読んでみ、とのことであった。昨年、武蔵を題材にした劇画「バ☆ボンド」のバックナンバー20数冊を進呈したことへの返礼と言えなくもないかもしれない。

  ウツボ草とドクダミ
  utsubo-dokudami.jpg

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 先日、植木等さんが亡くなった。ワタシは大ファンだった。氏の芸の上での硬軟の使い分けは、人間の深みを感じさせた。青島幸男さんとのコンビで数々の名コピーを世に輩出されたが、中でも「わかっちゃいるけどやめられない」というフレーズが、ワタシは大好きだった。これほど人間の本質を、誰にでもわかる言葉で、一言で語っている言葉は少ない。青島氏の才能もさることながら、このフレーズを完全に自分のものにして、さらに独自の世界観を付与して説得力を倍増させたのは、やはり植木等という人の類い稀なる才能だと思う。

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 1697。なんの数字でせう?

 藤原真理さんのチェロコンサートに行ってきた。ワタシに無上のインスピレーションと安らぎと高揚感を与えてくれる、バッハの無伴奏チェロ曲を中心にしたすばらしい演奏だった。
 で、1697 とは、西暦1,697年のことで、実はこの年は、藤原さんのチェロがイタリアで作られた年なのだ。御年310才の楽器とは!
 コンサートの会場であった京都の法然院は、これまた歴史あるお寺だ。演奏会場となった本堂は1,688年に建てられたものだそうだ。そして、バッハが生まれたのが1,685年。つまり、藤原さんのチェロ、法然院の本堂、バッハは同時代の産物だということになる。

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 あまりパソコンに向かいつづけるのはよくない。耳が疲れてしまう。「ウーーー」「ウイーン」「イーー」「キーン」という音が耳について、他の微細な音が聴こえにくくなってしまう。が、もうちょっとだけ。考えが湧いてきた。

「聴く」ことについて、さらに考えてみた。
 前便では、演奏中は三種類の音を聴きつづけることになる、として「そしてもうひとつは、これから演奏しようとしている、頭の中の音だ。楽譜の中にまだ眠っている音だ」と書いた。これは、少し不十分だった。

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 現代人は、予定にしたがって生きている。予定をこなすことが生きることだと言ってもいい。
 改めてこの事実に向き合ってみると、ずいぶん妙な気持ちになる。今、目の前にある風景は、たった今聴こえてくる鳥の声は、自分にとっていったい何なのだろう、とテツガクしてしまう。

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管理人について

HN:
巴だ リョウヘイ
性別:
非公開
職業:
揚琴・笛演奏屋 オカリナのセンセイ
趣味:
ほしい。
自己紹介:
 
演奏活動範囲/全国の都心から山間地まで。
演奏場所/ホールからお座敷まで。オカリナは野外歓迎。
演奏目的/オープニングセレモニーから追悼演奏まで。
演奏形態/独奏から異業種間共演まで。
所属事務所/Magnolia Music(自分的オフィス)

コンタクト方法/上記のホームページ(HP)の「FAQ & Form」のページからどうぞ。

特 技/晴れ男であること。

オカリナ倶楽部 “夢見るガチョウ” 主宰。

2018年、京都府下農村から大阪府下住宅街に移住。
今も雨乞い師見習い。
今も自然農見習い。
ノアのおとうちゃん。
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